言霊・楽習社(がくしゅうしゃ) ~心豊かに、言葉を生み、人生を潤す~
語源や考えたこと、お気に入りの歌や発想法、雑学など、政治経済社会の時事ネタも書いたりしています。また、楽習社とは私の脳内にある架空の企業です。現実世界での所属組織や職業が変わろうとも、生涯、理系・文系を問わず、古今東西の学問を楽習(がくしゅう)して、生きていきたいので、架空の企業名を勤務先にしています。その会社を退職する時は私の人生が終焉する時です。.

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4月23日 ペルー日本大使公邸強行突入 ~ 銃弾に砕かれた少年少女の夢・命を救った誉め言葉

今日は2007年4月23日
10年前の今日の1997年4月23日は
ペルー日本大使公邸占拠事件で
ペルー軍特殊部隊による強行突入が行われた日である。
(ペルー時間では4月22日)


私は当日、朝、5時ごろに目覚め
NHKのニュースは平常通りであり、
久々に散歩でもしようと5時15分ごろ家を出た。

そして、6時10分ごろ、自宅に戻って
テレビをつけて、NHKを見ると

「人質の方々は・・・」というフレーズが聞こえ
画面右下には

        大使公邸強行突入

とテロップがあった。

「うわ!散歩に行っている間に、こんなことが起こっていたのか」
と思った。


さてさて、
ペルー日本大使公邸占拠事件の流れを事件発生から追っていく。

1990年に日系ペルー人のフジモリ大統領が就任した。
経済は混沌し、貧富の格差が激しいペルーを
日本の経済協力もえて経済の立て直しをはかるとともに、
その社会不安の中でテロが続発した
ペルー社会の治安を回復するため
テロ鎮圧政策をすすめてきた中で、事件は発生する。



1996年12月17日(日本時間12月18日)
トゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員達14名が
ネストル・セルパをリーダーとして
天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた
リマの駐ペルー日本大使公邸を隣の空き家から
塀を爆破して、侵入し、襲撃した。
大使公邸が瞬く間に占拠され、数百人が人質となった。


セルパ達の要求は主に以下の4つであった。
 ①収監されているMRTAの仲間の釈放.
 ②フジモリ政権の経済政策の変更.
 ③アマゾン地域までの移動の際の人質の連行.
 ④戦争税(身代金)の支払い.


フジモリ大統領は即時の武力行使を検討したが、
日本政府の「平和的解決」の要望もあり、
12月21日には
「囚人の釈放要求は拒否する。しかし人質全員を解放すれば、武力行使は行わない」とフジモリ大領は述べる。

大使公邸内ではあまりの人質の多さにセルパは困っていて、
ミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表の求めに応じて、

12月22日
セルパは女性や老人など人質225名を解放し、

①大統領のメッセージは「降伏」を求めるもので、受け入れられない。
②政府と無関係の人質をクリスマスの祝意として解放する。
③残る人質の解放は、MRTAメンバーの釈放が条件である。

と声明を出す。

12月23日
新たな人質解放予定者の134名の名が読み上げられるが、
その時リストに入っていたウイッチ司祭の名前を呼ばれたが、
聖職者としての勤めを果たしたいと、人質とともにとどまることを望んだ。この行動は皆の賞賛を呼ぶ。

12月28日
政府代表のパレルモ教育相、国際赤十字のミニング代表、シプリアーニ大司教とセルパとの第1回目の直接対話。

その後、人質達は解放され続け、
1997年1月下旬までに、数名のフジモリ政権閣僚やペルー軍の将校を含むペルー政府関係者と青木盛久大使など駐ペルー日本大使館員、松下電器や三井物産などの日本企業駐在員ら
72名の人質に絞られた。
この72名は事件集結まで、大使公邸で過ごすことになる。
日本人人質は24名。

1月下旬、ペルー国家警察の装甲車が大音量の音楽を流しながら、
大使公邸前を行進することが多くなる。

この間、様々な差し入れが行われたのであるが、
人質のペルー軍出身の大臣が
差し入れにボソボソと語りかける姿が見受けられた。
「あの人、頭おかしくなったのか?」と
思える光景であり、
青木大使はその行動が何を意味するのか分からなかった。
実はこれにはわけがあった。

ペルー軍出身の大臣は
「フジモリ大統領が大使公邸に運び込まれる物資の中に盗聴器を仕掛けないわけがない」
と思ったのだが、何に盗聴器が仕掛けられているかが
わからないので、あらゆる差し入れの品に語りかけていたのだ。

その大臣がある日、差し入れのギターに
「これが聞こえたら合図の曲をかけてくれ」とささやくように
語りかけたところ、その翌日、合図の曲がかかり、
この日から、大使公邸内とペルー当局の盗聴器を通じた
連絡が始まる。


1月27日、日本政府が慌てる事態が発生する。

いつものようにペルー国家警察の装甲車が大使公邸前を
行進を始めた。その行進に参加していた隊員のひとりが
邸内のMRTAの女性に向かって卑猥な動作をして挑発した
ために怒ったMRTAが発砲し、装甲車に命中、
一触即発の事態になる。

武力衝突を懸念した日本政府は、ペルーとの首脳会談を
行うことを判断し、

2月1日
東京・リマの中間地点であるカナダのトロントで
橋本総理大臣とフジモリ大統領の首脳会談が行われ、
その後の共同記者会見で、

 ・平和的解決の追求、
 ・セルパらMRTAとペルー政府の予備的対話の開始、
 ・寺田大使の保証人委員会オブザーバー参加
以上のことで意見が一致し、

2月11日
大使公邸内で、ペルー政府のパレルモ教育相とMRTAの
第1回予備的対話が行われた。

ただ、その一方で、フジモリ政権は武力突入への準備を
着々と進めていた。
1月下旬に、
フジモリ大統領の意を受け、
大使公邸と同じ間取りのセットを造り特殊部隊が
突入のシミュレーション訓練を積み重ねていた。

フジモリ大統領は地下トンネルを掘り
そこから突入することを発案した。
その作戦名は「チャビン・デ・ワンダル作戦」。

ペルーに、世界遺産のチャビン遺跡があり、
そこには地下回廊があり、そして神殿がある。
その構造にヒントを得て、
「チャビン・デ・ワンダル作戦」をフジモリ大統領が考案した。

 (チャビン遺跡については
   世界遺産:チャビン遺跡
   ペルー旅行の写真と観光情報ワラス > チャビン遺跡
   に書いてあります)


「チャビン・デ・ワンダル作戦」実行に向けて、
大使公邸の地下のトンネル掘削作業を着々と進めていた。
そして、大音量の音楽を流す理由は、このトンネル掘削作業の
音をセルパ達に気づかれないようにするためでもあったのだ。

一方で、フジモリ大統領はキューバを訪問し、
カストロ議長にMRTAの14名を受け入れを要請し、
平和的解決も模索していた。



大使公邸内は、人質の72名とMRTAの14名、96名が
過ごし続けているのだが、
長時間同じ場所で、時間と空間を共有すると
自然に人と人との交流が深まってくる。

セルパはペルーが抱えている社会問題を切々と語る。
それに対して、人質の日本人の1人は
「すべてに同意できるわけではないが、考えさせられるものが
あった」と後述している。

国籍の異なる人質達の間で、日本語、スペイン語、フランス語の
語学教室が行われる。それになんと
MRTAの若いメンバーが参加していた。


MRTAの14名のうち6名は
アマゾンの奥地から500ドルで
アルバイト感覚で参加していた。
この仕事はすぐに終わるだろうと思っていたようだ。
彼らはこの仕事の話が来た時、
バスで行けるところだと思っていたようで、
その仕事の代金を
家族のための食費にあてることを考えていた。

また、篭城しているMRTAのほとんどが
12歳から18歳までの少年達で、
うち2人は15歳の女の子だった。
少年らは文字も書けず、
世界地図は見たことがなく、日本がどこにあるかも知らない。

そのような少年少女達は
人質達が持つ知性や文化に惹かれていく。

日本から差し入れられた
カップラーメンに感動して、
「家族の土産にする」と言うMRTAの少女がいた。

そして、MRTAのある少年は日本語教室の勉強会に
熱心に参加し、
ひらがな、かたかな全部と、漢字も少し書けるようになり、
日本の写真集を拾い読みできるまでになり、
「おはようございます」と挨拶するようになっていた。

そして、ある日
MRTAのある少年が絵を描いていた。
それを見たある人質のひとりが、
「君は絵が上手い、勉強すれば画家にだってなれる」と
誉めると、その少年は喜び、目を輝かせた。

そして、MRTAの少年・少女達は
 「もらったお金で小型バスを買い、ミニバスの運転手になりたい」
 「土地を買ってコーヒー園をしたい」
 「事件が終わったら軍に入りたい」
 「キューバでコンピュータを勉強したい」
 「日本の警察官になりたい」

と、将来の夢を語るようになっていた。


事件が長期化してくると、人は日常の楽しみを興じ
たくなってくる。
セルパをはじめとするMRTAのメンバー達は、
何日も同じ場所で留まっていると
気分転換に体を動かしたくなる。
ペルー政府はそのようなMRTAメンバーたちの心理を分析、
ある意図を持ってスポーツウエアやボールを差し入れた。


MMRTAの見張り役の一部のメンバー以外は、
その差し入れのスポーツグッズを
使い、1階の大広間で、
ミニサッカーを日課のようにおこなっていた。
(毎日の場合もあれば、1日置きにする場合もあった)

そして、セルパは、4月12日頃、
大使公邸から10歳の息子に手紙を送る。

その手紙には、

ペルーチームが立ち直り、ワールドカップに出れたらいいね

自分がサッカーをしていることを伝え、

いつの日か、君と一緒に試合がしたい

と、セルパは刑務所にいるMRTAメンバーである妻の釈放を
強く求めていた。

セルパは妻と同じ家で再び過ごし、息子と
楽しくサッカーをすることを夢見ていたのだろうか?

ただ、この手紙が息子へのラストメッセージとなるのであった。

そう、その日、その時は迫っていた。


セルパと篭城したMRTAのナンバー2のロハスらが
ペルー政府の提案に対する返答について
議論をしていたが、セルパが政府の案にやや妥協しようと
したが、ロハスが反対し、議論に参加した
何名かの間で、多数決で採択したところ
セルパの提案は否決された。

その会議を盗聴器で傍受した
ペルー政府はMRTAとの交渉による解決は不可能と判断し、
フジモリ大統領は強行突入による解決を決断する。

4月21日の朝から突入の準備に着手。
その日の午後、
MRTAのメンバーが日課のサッカーを行う。
負けたチームのひとりが「ミエルダ(くそ)」
と大声を上げていた。

その様子をペルー軍は傍受して、
「明日、必ずリベンジ戦がある」と判断した。



そして、4月22日の午後
1階に、ある日本人人質が
歩いていると、階段から
あるペルー人が手招きをして
「2階に上がってこい」と言うので、
2階に上がっていった。
人質のペルーの軍人は、2階廊下を
聖書を読みながら歩いていた。
ただ、読むだけでなく、ボソボソとつぶやきながら
聖書に語りかけていた。

長い人質生活で頭がおかしくなったのかと
思った人もいたようだが、
聖書には盗聴器が仕掛けられいて、
MRTAメンバーの様子を克明に伝えていたのだ。

そして、やはり、この日、
2階にいる見張り以外の
MRTAメンバー達は、
1階の大広間でサッカーを始めた。

その様子は、聖書に仕掛けられた盗聴マイクを
通じて、人質のペルー軍人が伝え、そして、
フジモリ大統領に伝わる。


フジモリ大統領は
「今だ!」
突入にゴーサインを出す。

そして、
1997年4月22日15時23分(日本時間4月23日5時23分)
1階の床の数箇所が爆発!!
チャビン・デ・ワンダル作戦が開始された。


            20070423152015.jpg



爆発とともに、
ペルー海軍特殊作戦部隊(FOES…Fuerza de Operaciones Especiales)が
正面玄関、地下トンネルから
一斉に突入した。


            20070423152137.jpg

               正面からの突入



            20070423152250.jpg

          地下トンネルから出る隊員(赤枠内



1階の大広間でサッカーに興じていた
MRTAのメンバーは爆風で吹き飛ばされた。
大広間にはMRTAのメンバーの多くがいたので、
第1撃で、MRTAの戦力の大部分を無力化できた。
ペルー政府は、これを狙って、サッカーなどの
スポーツグッズを差し入れたと推測されている。


セルパは、
吹き飛ばされされながらも
かろうじて、銃を手に取り立ち上がろうとしたが、
特殊部隊からの一斉射撃を受け、
亡くなった。


      20070423152644.jpg

          脱出する人質


      20070423152922.jpg

         搬送される負傷者



そして、2階に残っていた他のMRTAのメンバーは
政府が強行突入したら、人質を殺害するという
方針のもと人質のいる部屋に向かい、
ある人質に銃口を向ける。

その人質が目にした銃口を向けているMRTAのメンバーは
「君は絵が上手い、勉強すれば画家にだってなれる」と
誉めたたえた少年であった。

その少年は悲しそう表情を浮かべて、
銃口を下ろし、その場を離れた。

その人質曰く、
「彼が撃っていたら、私は死んでいた」と語っている。


この突入の結果、
人質72名のうち71名が無事解放されたが、
人質のうちカルロス・ジュスティ最高裁判事が死亡、

特殊部隊のうち2名が死亡



そして、
セルパらMRTAメンバー14名全員が射殺された。

突入作戦の後、仲介役を務めた
シプリアーニ大司教が

MRTAメンバーもまた神の子である

と記者会見で、涙を流した。

セルパも妻と息子を愛する家族を持つ男で、

家族と再び暮らせる時を夢見て、

MRTAメンバーの少年・少女達も将来に夢を抱いていた。


その彼・彼女らの夢は銃弾によって砕け散った。



MRTAメンバーの少年・少女達は
人質達との交わりが深まり、いろいろ教わり、
敬意と親愛の情を抱くようになり、
人質の命を奪えなくなってしまったのであった。

このように
「犯人の方が人質に感化され、人質に対する態度が和らぐ現象」を
この事件を契機に、この事件が発生したペルーの首都「リマ」にちなみ
「リマ症候群」と呼ばれるようになった。


この事件で最も印象に残ったところは

「君は絵が上手い、勉強すれば画家にだってなれる」と
誉めたたえたられた少年が、
軍の突入後、その誉めてくれた人質に銃口を向けたが、
悲しそうな顔をして、銃口を下げ、去っていったところだ。

自分の良さを認めてくれて
誉め称えてくれて、夢を抱かせてくれた
人を傷つけることはできなかったのあろう。


この場合の彼への誉め言葉が、
この人質の命を救ったのかもしれない。

ただ、
この少年・少女達の死が、この事件の悲劇さを
感じる部分であり、
MRTAメンバーの少年・少女達の死を知った
人質の中には
心に大きなトラウマを抱えた人もいたという。


この事件で、人質となっていた外交官の
小倉英敬氏は、外務省退官後、学者となり、
このペルー日本大使公邸占拠事件に関して、

『封殺された対話:ペルー日本大使公邸占拠事件再考』

という著書を出している。

彼は、人質生活の間、
MRTAのメンバーの声に耳を傾け聞き取ろうとし、
MRTAの方針・手法に異論をあげながらも、
「社会正義を求める」初心には純粋さを感じていたようだ。
そして、対話による平和的解決の方法はあったはずだと主張する。


強行突入止むなしとしても
少なくとも、
人質達との生活で
将来の夢を抱き熱心に学ぼうとしていた
MRTAメンバーの少年・少女達が射殺されることなく
生きて、刑期を終え、社会復帰するチャンスが
与えられなかったことは悲しいことであった。


中島みゆきは、この事件の解決のニュースに触発され、
『4.2.3』という曲を作成、
「私の子供になりなさい」の
ラスト曲で12分19秒という作品大作である。


歌詞の一部に次のようなところがある。


リポーターは日本人が手を振っていますとだけ嬉々として語り続ける
担架の上には黒く煤けた兵士

腕は担架からぶら下がり 足首がグラグラと揺れる
兵士の胸元に赤いしみが広がる
兵士の肩に彼の銃が ためらいがちに仲間によって載せられる
担架はそれきり全速力でいずこかへと運び出されてゆく


(中略)

しかし見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心がある人たちが何故
救け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろう

この国は危い何度でも同じあやまちを繰り返すだろう 
平和を望むと言いながらも日本と名の付いていないものにならば 
いくらだって冷たくなれるのだろう

慌てた時に 人は正体を顕わすね

・・・・・・・・・・・・・・

ペルー日本大使公邸占拠事件 You Tube 映像

La operacion: Chavin de Huantar(ダイジェスト的編集26秒)


Rescate Embajada Japón - Japan Embassy Rescue. Perú. MRTA.(現地のマスコミ、映像やや悪い 7分ぐらい)

Fujimori explica la Operacion de Rescate Chavin de Huantarフジモリ大統領インタビューなど 英語字幕)


                  


                  


                  


                  


                  


                  
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この記事に対するコメント

あたしは中島みゆきさんの大ファンで「4.2.3」を知っていて、なんかの事件のことを書いた歌だということは小耳に挟んでおりました。
でも、こんなにも悲惨な出来事があったとは・・・
10年前は幼稚園児だったし、覚えてるわけもなのですが。
【2007/04/28 12:25】 URL | 千愛 #-[ 編集]

当時、現地で取材にかかわった者です。中学生に授業することになり、この事件を題材にしようとしています。その最中、検索していてたどり着きました。

内容からするに、私が書いたものも読まれていると推察します。くわどんさんもご承知のように、MRTAの少年少女兵士は途上国でよく見られる貧しい子たちでした。少年兵士は人懐こそうにまとわりついてきて、少女兵士はカメラにはにかんでいました。

現在のイスラム系のテロとは、まったく違うタイプの事件です。人の哀しさみたいなものが漂う東西冷戦の名残を残す最後の事件だったのでしょう。

いまだに、この事件を思い出すと悲しくなります。人質の方々にも、そういう人は多いようです。
【2010/01/21 12:20】 URL | こ~ #6Q0aW8YQ[ 編集]

この記事を読んで、本当に悲しくなりました。こんなに、残忍で無謀な強行手段を使ったフジモリは許せません。こんなにひどい事件なのにペルーの人には全然知られていません・・・。だから、未だにフジモリを信頼し、慕っていっる人もいるのです。ペルーの大統領選挙で娘のケイコ・フジモリ氏が立候補する予定です。彼女は選挙に勝った後、現在牢屋にいるフジモリ氏を釈放するつもりらしいです。被害者でも、当事者でもないけど、なんだか悔しいです・・・。
こんな昔の記事にすみません。丁重な文章でとっても読みやすかったです。
【2014/08/01 17:18】 URL | E #-[ 編集]


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