シルクロードの日 1900年3月28日 幻の国楼蘭発見 〜 喜多郎のシルクロードは名曲やね!!
2007.03.28(Wed)18 : 33
本日、3月28日は
「シルクロードの日」とされている。
19世紀末期
列強諸国は中央アジア探検に出ていた。
スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家であった
スウェン・ヘディンが
ウイグル語で「一度入ったら二度と出られない場所」
を意味するタクラマカン砂漠を探索していた
1900年3月28日
スウェン・ヘディンは
タクラマカン砂漠で
当時タリム川の分流の一つであったコンチェ川の
乾いた河床を調査していた。
ヘディンは、前日のキャンプ地にスコップを置き忘れて
しまった。そこで、探検隊の従者に
スコップを取りに行くように頼んだ。
ところが、その従者が
砂嵐に巻きこまれてしまい、
その砂嵐の中を何とか動いていると、
見知らぬ廃墟に行き当たった。
そこで、従者は
美しい渦巻模様の彫刻の施された板を見つけて
持ち帰りヘディンに見せた。
ヘディンは、これは未発見の遺跡だと直感し、
翌年、改めてその廃墟の地を訪れ、
仏塔などを発掘し、
そこで見つけた木彫仏像や木簡を
ヨーロッパに持ち帰り、
東洋史家が解読したところ、
その廃墟は、幻の楼蘭(ローラン)王国の都であることがわかった。
つまり、
従者が砂嵐に巻き込まれ、偶然、廃墟を見つけた
1900年3月28日が
楼蘭発見の日とされ、それにちなんで
3月28日がシルクロードの日とされているのだ。
楼蘭という漢字表記は、
現地名であるクロライナ
(クロラインナ/Kroraina, Kroraimna)の音訳である。
楼蘭の歴史は、周りの大国に翻弄された歴史であった。
楼蘭は、彷徨える湖ロプノールの湖畔にあった都市である。
ロプノール周辺からは、石器や彩色土器など先史時代
の遺物があり、その頃から人が住んでいたことが
わかっているが、楼蘭王国がいつ成立したかは不明である。
楼蘭が記録に登場するのが
紀元前176年
匈奴の支配者であった冒頓単于から
前漢・孝文帝に送られた書簡に
匈奴が征服した国の中に
楼蘭の記述があった。
その後、楼蘭は、
シルクロードという
東西貿易の要に位置する楼蘭は、
その利権を狙う匈奴と漢の勢力争いに翻弄される。
紀元前141年、漢の武帝が
匈奴をけん制する積極政策に出る。
匈奴の西方に位置する大月氏と同盟を図ろうと画策する。
漢は
紀元前119年には漠北の匈奴本拠地を攻撃し、
撃退し、漢の勢力が強くなり、楼蘭のある西方地域に
漢人の進出が多くなると現地で摩擦が多くなり、
漢に対する反発が高まった。
その時、楼蘭が、漢の使者を往来を妨害したり始めた。
すると、漢の武帝は紀元前105年
楼蘭に軍事介入を図り、
楼蘭国王を捕らえた。
そこで、楼蘭は王子の1人を漢に人質として出し、
漢に服属した。
そのことが看過できなかったのが匈奴である。
その直後に、匈奴は楼蘭を攻撃し、
楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り出すこととなった。
その後、
西方諸国の大宛に漢が使者を送ったが、
大宛がその使者を襲撃し、
漢は報復の軍事行動に出た。
その時、楼蘭の王も捕らえられ、漢に送られ、
武帝に詰問されたすえ、
匈奴にも王子を人質として出して、
匈奴に服属していることを認め
「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない。」
と述べ、
両属を認めないならば漢の領土に土地を与え移住させて欲しい
と言うと、武帝は楼蘭の王の主張を理解し、
帰国を許可した。
楼蘭の王が武帝に言ったことは大国に翻弄される小国の姿が
如実に物語るものであった。
紀元前77年には国王安帰(あんき)が
漢の派遣した傅介子(ふかいし)によって暗殺され、
漢の後ろ盾による新王が即位するという事件が発生した。
そして、漢によって国名は鄯善(ぜんぜん)に改められ、
以後は漢の傀儡王国となっていった。
漢で一時新が発生し、後漢が成立するまで
匈奴の勢力が盛り返したりする。
やがて、後漢が成立すると
再び、楼蘭など西域に本格的に介入を開始し、
またもや、楼蘭は漢と匈奴との大国に翻弄される。
紀元76年に漢の班超が36人の部下とともに
楼蘭(鄯善)王国にやってきた。
楼蘭(鄯善)王国の王である広は
班超を手厚くもてなしていたが、
急に待遇が悪くなってきた。
それを不思議に思った班超がその背景を探ったところ
匈奴からも使者が兵士200名を率いて
楼蘭(鄯善)王国に来ており、
広は匈奴使の心証を悪くするのを恐れ、
班超の待遇を落とし、さらに
漢につくか匈奴につくか迷っているという情報を得た。
そこで、班超は、このままでは匈奴の使者に自分達が
殺されるかもしれないと考え、
班超は,従者達に相談したところ
「将軍の判断に一任する」と言うので、
班超は
「虎穴に入らずんば,虎子を得ずというように,
この窮地を脱し目的を達成するには,命を賭けなければいけない。
夜、匈奴の使者の宿舎に奇襲焼き討ちする。
それ以外に、勝ち目はない。
敵は我々がどのくらい兵をもっている
のかがわからないので、一気に攻めると敵は混乱し、
全滅は可能だ」と言い、
匈奴の使者の宿舎を攻撃し、全滅させ、
翌日、
匈奴の使者の首を楼蘭(鄯善)王国の広に見せつけると
広は驚愕し、漢に王子を人質として出し、
「同盟」を結んだ。
この時のエピソード、つまり楼蘭王国の存在が
虎穴に入らずんば,虎子を得ず
という故事成語を有名にすることことにつながった。
ちなみに、のちに班超は
部下の甘英に
大秦国(ローマ帝国)に向かわせ,ローマ帝国との交易の道を拓こうとした。
やがて、
漢と同盟を結んだ楼蘭は「鄯善王国」として、
繁栄し、1世紀末には最盛期を迎え、
ロプノール沿岸からチャドータに至る約900kmに及ぶ
タクラマカン砂漠の南部広大な土地を支配下にし、
少なくとも4世紀ごろまでは、領土を失なうことはなかった。
しかし、その後、
北魏、吐谷渾、丁零、蠕蠕、高車などの異民族の侵入に遭い、
また、6世紀には、シルクロードに新たな経路が発達したため、
交易は低下し、国力は衰え、
唐の時代の630年頃には、
この地に残っていた鄯伏陁(ぜんふくだ)に率いられた鄯善人
が北方に移住したという。
それよって楼蘭の地はほぼ無人化し、
644年、天竺の岐路、楼蘭を通過した
玄奘三蔵は「城郭あれど人煙なし」と
「大唐西域記」に記している。
その後、楼蘭は砂漠に埋もれ、
幻の国となり、
1900年3月28日、
スウェーデンの探検家
スウェン・ヘディンの従者が
砂嵐に中、偶然、見つけられるまで、
砂の中に眠り続けることとなる。
そして、1980年、
中央アジア探検家であった
オーレル・スタイン以来、約半世紀ぶりに
中国考古隊、中国CCTV及び日本のNHKシルクロード
共同取材班が、楼蘭遺跡に入ったところ
まつげまで残っている女性のミイラを見つけた。
これが有名な「楼蘭の美女」である。
NHK特集の「シルクロード」と言えば、
なんと言っても、喜多郎が演奏する
シルクロードのテーマ曲である「絲綢之路」は
シルクロードの雄大さを感じさせる名曲である。
この番組は、私が小学生のころ、放映され
父が見ていた。
私は番組の内容は覚えていなかったが、
このシルクロードのテーマ曲だけは
小学生の私の心に響くものであった。
NHK特集「シルクロード」の
番組の冒頭でテーマ曲「絲綢之路」が流れ始めた途端、
「これは一体誰の曲なんだ?」と
NHKに問い合わせが殺到したという。
シルクロードのテーマ曲「絲綢之路」はここで聞けます
シルクロードのテーマ曲「絲綢之路」を聞く をクリック
シルクロードのテーマ曲「絲綢之路」収録
「シルクロードの日」とされている。
19世紀末期
列強諸国は中央アジア探検に出ていた。
スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家であった
スウェン・ヘディンが
ウイグル語で「一度入ったら二度と出られない場所」
を意味するタクラマカン砂漠を探索していた
1900年3月28日
スウェン・ヘディンは
タクラマカン砂漠で
当時タリム川の分流の一つであったコンチェ川の
乾いた河床を調査していた。
ヘディンは、前日のキャンプ地にスコップを置き忘れて
しまった。そこで、探検隊の従者に
スコップを取りに行くように頼んだ。
ところが、その従者が
砂嵐に巻きこまれてしまい、
その砂嵐の中を何とか動いていると、
見知らぬ廃墟に行き当たった。
そこで、従者は
美しい渦巻模様の彫刻の施された板を見つけて
持ち帰りヘディンに見せた。
ヘディンは、これは未発見の遺跡だと直感し、
翌年、改めてその廃墟の地を訪れ、
仏塔などを発掘し、
そこで見つけた木彫仏像や木簡を
ヨーロッパに持ち帰り、
東洋史家が解読したところ、
その廃墟は、幻の楼蘭(ローラン)王国の都であることがわかった。
つまり、
従者が砂嵐に巻き込まれ、偶然、廃墟を見つけた
1900年3月28日が
楼蘭発見の日とされ、それにちなんで
3月28日がシルクロードの日とされているのだ。
楼蘭という漢字表記は、
現地名であるクロライナ
(クロラインナ/Kroraina, Kroraimna)の音訳である。
楼蘭の歴史は、周りの大国に翻弄された歴史であった。
楼蘭は、彷徨える湖ロプノールの湖畔にあった都市である。
ロプノール周辺からは、石器や彩色土器など先史時代
の遺物があり、その頃から人が住んでいたことが
わかっているが、楼蘭王国がいつ成立したかは不明である。
楼蘭が記録に登場するのが
紀元前176年
匈奴の支配者であった冒頓単于から
前漢・孝文帝に送られた書簡に
匈奴が征服した国の中に
楼蘭の記述があった。
その後、楼蘭は、
シルクロードという
東西貿易の要に位置する楼蘭は、
その利権を狙う匈奴と漢の勢力争いに翻弄される。
紀元前141年、漢の武帝が
匈奴をけん制する積極政策に出る。
匈奴の西方に位置する大月氏と同盟を図ろうと画策する。
漢は
紀元前119年には漠北の匈奴本拠地を攻撃し、
撃退し、漢の勢力が強くなり、楼蘭のある西方地域に
漢人の進出が多くなると現地で摩擦が多くなり、
漢に対する反発が高まった。
その時、楼蘭が、漢の使者を往来を妨害したり始めた。
すると、漢の武帝は紀元前105年
楼蘭に軍事介入を図り、
楼蘭国王を捕らえた。
そこで、楼蘭は王子の1人を漢に人質として出し、
漢に服属した。
そのことが看過できなかったのが匈奴である。
その直後に、匈奴は楼蘭を攻撃し、
楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り出すこととなった。
その後、
西方諸国の大宛に漢が使者を送ったが、
大宛がその使者を襲撃し、
漢は報復の軍事行動に出た。
その時、楼蘭の王も捕らえられ、漢に送られ、
武帝に詰問されたすえ、
匈奴にも王子を人質として出して、
匈奴に服属していることを認め
「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない。」
と述べ、
両属を認めないならば漢の領土に土地を与え移住させて欲しい
と言うと、武帝は楼蘭の王の主張を理解し、
帰国を許可した。
楼蘭の王が武帝に言ったことは大国に翻弄される小国の姿が
如実に物語るものであった。
紀元前77年には国王安帰(あんき)が
漢の派遣した傅介子(ふかいし)によって暗殺され、
漢の後ろ盾による新王が即位するという事件が発生した。
そして、漢によって国名は鄯善(ぜんぜん)に改められ、
以後は漢の傀儡王国となっていった。
漢で一時新が発生し、後漢が成立するまで
匈奴の勢力が盛り返したりする。
やがて、後漢が成立すると
再び、楼蘭など西域に本格的に介入を開始し、
またもや、楼蘭は漢と匈奴との大国に翻弄される。
紀元76年に漢の班超が36人の部下とともに
楼蘭(鄯善)王国にやってきた。
楼蘭(鄯善)王国の王である広は
班超を手厚くもてなしていたが、
急に待遇が悪くなってきた。
それを不思議に思った班超がその背景を探ったところ
匈奴からも使者が兵士200名を率いて
楼蘭(鄯善)王国に来ており、
広は匈奴使の心証を悪くするのを恐れ、
班超の待遇を落とし、さらに
漢につくか匈奴につくか迷っているという情報を得た。
そこで、班超は、このままでは匈奴の使者に自分達が
殺されるかもしれないと考え、
班超は,従者達に相談したところ
「将軍の判断に一任する」と言うので、
班超は
「虎穴に入らずんば,虎子を得ずというように,
この窮地を脱し目的を達成するには,命を賭けなければいけない。
夜、匈奴の使者の宿舎に奇襲焼き討ちする。
それ以外に、勝ち目はない。
敵は我々がどのくらい兵をもっている
のかがわからないので、一気に攻めると敵は混乱し、
全滅は可能だ」と言い、
匈奴の使者の宿舎を攻撃し、全滅させ、
翌日、
匈奴の使者の首を楼蘭(鄯善)王国の広に見せつけると
広は驚愕し、漢に王子を人質として出し、
「同盟」を結んだ。
この時のエピソード、つまり楼蘭王国の存在が
虎穴に入らずんば,虎子を得ず
という故事成語を有名にすることことにつながった。
ちなみに、のちに班超は
部下の甘英に
大秦国(ローマ帝国)に向かわせ,ローマ帝国との交易の道を拓こうとした。
やがて、
漢と同盟を結んだ楼蘭は「鄯善王国」として、
繁栄し、1世紀末には最盛期を迎え、
ロプノール沿岸からチャドータに至る約900kmに及ぶ
タクラマカン砂漠の南部広大な土地を支配下にし、
少なくとも4世紀ごろまでは、領土を失なうことはなかった。
しかし、その後、
北魏、吐谷渾、丁零、蠕蠕、高車などの異民族の侵入に遭い、
また、6世紀には、シルクロードに新たな経路が発達したため、
交易は低下し、国力は衰え、
唐の時代の630年頃には、
この地に残っていた鄯伏陁(ぜんふくだ)に率いられた鄯善人
が北方に移住したという。
それよって楼蘭の地はほぼ無人化し、
644年、天竺の岐路、楼蘭を通過した
玄奘三蔵は「城郭あれど人煙なし」と
「大唐西域記」に記している。
その後、楼蘭は砂漠に埋もれ、
幻の国となり、
1900年3月28日、
スウェーデンの探検家
スウェン・ヘディンの従者が
砂嵐に中、偶然、見つけられるまで、
砂の中に眠り続けることとなる。
そして、1980年、
中央アジア探検家であった
オーレル・スタイン以来、約半世紀ぶりに
中国考古隊、中国CCTV及び日本のNHKシルクロード
共同取材班が、楼蘭遺跡に入ったところ
まつげまで残っている女性のミイラを見つけた。
これが有名な「楼蘭の美女」である。
NHK特集の「シルクロード」と言えば、
なんと言っても、喜多郎が演奏する
シルクロードのテーマ曲である「絲綢之路」は
シルクロードの雄大さを感じさせる名曲である。
この番組は、私が小学生のころ、放映され
父が見ていた。
私は番組の内容は覚えていなかったが、
このシルクロードのテーマ曲だけは
小学生の私の心に響くものであった。
NHK特集「シルクロード」の
番組の冒頭でテーマ曲「絲綢之路」が流れ始めた途端、
「これは一体誰の曲なんだ?」と
NHKに問い合わせが殺到したという。
シルクロードのテーマ曲「絲綢之路」はここで聞けます
シルクロードのテーマ曲「絲綢之路」を聞く をクリック
シルクロードのテーマ曲「絲綢之路」収録
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