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言霊・楽習社(がくしゅうしゃ) ~心豊かに、言葉を生み、人生を潤す~
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「言(こと)」と「事(こと)」・・・・哲学者の長谷川三千子氏の「日本語の哲学へ」より・・・「事(こと)」という意味が先にあり 、そこから「言(こと)」という語の意味を支えている

今日は、2018年(平成30年)5月13日 日曜日

日本語の「言(こと)」という表記や意味について
「事(こと)」に由来しているのではないかと
いうことを、哲学者の長谷川三千子氏が彼女の著書
「日本語の哲学へ」で主張している。

それについて「日本語の哲学へ」の内容を
引用して紹介する。


長谷川三千子氏は
豊田国夫氏の「日本人の言霊思想」のある
調査を引用している。
豊田氏が上代の日本人が言事融即観により
「言」と「事」の意味としてかなり混用
しているのではないかと仮説を立てて、
(「言」を「事」の意味として、
「事」を「言」の意味として表記している)
万葉集などの古代の文献で
「言」と「事」がどのように混用されて
いるか調べた。
しかし、調べてみると混用もあったが
「言」を「言」の意味として、
「事」を「事」の意味として
整然と書き分けられている割合が
想像以上に多かったことを長谷川氏は
紹介している。

豊田国夫氏の「言」と「事」の表記と意味の
割合の調査表を引用すると、


事(表記) 事(意味)⇒24%
言(表記) 言(意味)⇒23%
事(表記) 言(意味)⇒23%
言(表記) 事(意味)⇒ 1%

となる。
47%が「事」は「事」の意味として
「言」は「言」の意味として区別されている。

これについて、長谷川氏は次のように著書で
記述している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「事」と「言」の表記の「混用」―実は「書き分け」―が
示しているのは、そうした「言霊思想」といったものではありえない。
もしそれを示すのなら、むしろ逆に「言」と書いて「事」をあらわす
例の方が圧倒的に多い、ということになっていたはずである。
いま見た、「事」と「言」との「書き分け」のさまが示しているのは、
ただ端的に「事」が先立っている、という上代の人々の認識であり、
これはつまり、自分たちの「言」という語は「事」の意味にしたがって
生み出されたものである、という自己理解なのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、古代の日本人が
何かの「できごと」という「事(こと)」という意味が先にあり、
そこから「言(こと)」という語の意味を支えているというのだ。


長谷川氏は哲学者の和辻哲郎氏(1889年~1960年)が執筆した
「日本語と哲学の問題」から引用している。
その和辻氏の引用文の一部を書き出すと

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「言」のこの特性は、それが本来「こと」の性格として
存するのでないならば、「言」と「事」とが本質的には
同一であるとの前言を覆すことになる。
「こと」が本来「あらわにする」という性格を持ち、
それが「言」として現れるのであるとき、
初めて「言」が本来の「こと」でありつつしかも
それ自身の特性を持つゆえんが理解されるのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

と和辻氏の文を引用したのを受けて、長谷川氏は
次のように記述している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり一口に言えば、和辻氏は「言」の特性を「あらわにする」と
いうことの内に認め、そしてそれは、まさしく「事」の特性として
あったものだ、と指摘しているのである。
和辻氏のこの洞察は、「言」と「事」とのむすびつきの核心を
ずばりと言いあてている。
「あらわにする」ということは、「言」の特性であると同時に、
「事」が「言」を生み出すはたらきの根幹でもある。
そしてそれは、「こと」の目立ちととらえ返しの
はたらきによるのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ということだが、長谷川氏は
「こと」について、
「目立つこと」と「とらえかえす」という機能があり、
それが「こと」を「言」たらめしていると分析している。


長谷川氏は「事」という漢字の字源から
次のような分析をしている。
「事」の字源には、
「すくっと立っている」という様態が
うかがえ、そして、「事」のもともとの字源には
「事」の文字の下側の真ん中の下に突き抜けている線以外に
その右側の方に下に向いた線があり、
それが支える手によって立っている
様態に見えるが、
日本語の「事」の漢字には、その「支える手」によっての
線の部分が無い。

それについて、長谷川氏は次のように記述している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本語の「こと」をあらわす文字として選ばれた「事」においては、
「支える手」というものは完全に無視されている。
そこにはただ、「目立つ」ものとして「自ら生起し」、
屹立する「こと」の姿見られているだけである。
これはまさしく、和辻氏が言っていた
「何人の作為を持たず、何人も左右し得ないこととし」の
「こと」の姿である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「事」のうちに自らをあらわにする力があり、
何人の作為を持たず、自ら生起し、
自らを「あらわにする」。
その「事」をまっすぐ受けて、「言」が
「言葉」となると古代の日本人が考えていたと
長谷川氏は考察している。


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