言霊・楽習社(がくしゅうしゃ) ~心豊かに、言葉を生み、人生を潤す~
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日本で初めてジーンズを着た男の先見性と洞察力・・・日米開戦の前年に、東京の街中から山村に引っ越して、農家になった白州次郎

今日は、2015年(平成27年)12月 8日 火曜日

12月8日という日は、近代日本史において運命的な日である。
昭和16年(1941年)12月8日、日本はアメリカとの戦争を開戦し、
第2次世界大戦が名実ともに世界大戦となった日である。

そのような日に、
日本で初めてジーンズを着た男とも言われ、
SMAPの木村拓也や明石家さんまが憧れる男でもあり、
また、敗戦後の占領軍のGHQから
「従順ならざる唯一の日本人」と言わせしめた
白州次郎という人物の物語を紹介する。

白洲次郎 jiro-shirasu c
白州次郎、48歳の時の撮影とされる

白州次郎は、明治35年(1902年)2月17日、
現在の兵庫県芦屋市(当時は、武庫郡精道村)にて、
貿易商の豪快な富豪の息子として誕生する。

次郎の父の豪快ぶりの逸話として、次のようなことがあった。
日露戦争で日本海軍がロシアのバルティック艦隊を日本海海戦で
撃沈して勝利した時、次郎の父は、お祝いと称して、
たまたま同じ汽車の車両に乗り合わせた乗客全員を
神戸のビアホールに誘って、大盤振る舞いにおごったという。

そのような豪快な父のもとで育った白州次郎は、
神戸一中(現在の神戸高校)に通っているときに、
父から高級外国車を与えられ乗り回し、
また、手のつけられない乱暴者として
恐れられていた。

白州次郎は晩年、この神戸一中時代にことを
ある知人との女性の会話でこうふりかえっている。

その知人との女性が、昨今の中学校の校内暴力事件が
ニュースになっていることについて、話題になった時のこと
次のような会話が展開された。

「風の男 白州次郎」P48より引用(一部、私の付け加えもある)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


女性「このごろ新聞を見ると、中学生が荒れていると、いろいろ出ているけどねえ」

白州「俺なんて、あんなものじゃなかったんだよ。悪いなんてもんじゃない」

女性「だんな様も不良だったんですか」

白州「そう不良」

と言って、細君(女性)の方をふりかえり、ニヤリと笑って、

白州「それで、島流しになっちまったんだよ」

女性「へぇー、どこに流されたんです」

白州「イギリスという島さ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

白州次郎が表現したイギリスという島への島流しとは、
彼が、17歳の時の大正8年(1919年)の時、
イギリスの名門大学であるケンブリッジ大学に留学したことである。

白州次郎は、ケンブリッジ大学に留学し、その間も
当時の高級車のベントレーを乗り回すような日々であったが、
7年におよぶケンブリッジ大学への留学経験が、
国際人としての白州次郎を作り上げていき、
世界の中の日本を客観視できるようになり、
日米開戦の渦中でも生き残れる行動を取れる洞察力と先見性を
身に付けたと私は感じる。

白州次郎は、ケンブリッジ大学の大学院で歴史を学び学者になろうと
したが、昭和3年(1928年)に、
昭和金融恐慌の大不況で実家の会社が倒産して、
日本に帰国し、その後、実業家として働き始める。

昭和12年(1937年)、彼は水産貿易関係の商社の取締役に
就任し、海外を飛び回り、イギリスにもよく立ち寄った。

その時、当時の英国の日本大使館の駐英大使に就任した
吉田茂(のちに戦後の内閣総理大臣になる人物)と
白州次郎の関係が深まっていった。

白州次郎と吉田茂は、
当時の日本が、中国などアジア大陸への侵攻をめぐって、
アメリカと対立を深め、アメリカと対立するナチスドイツと
手を組み始めたことに危機を抱き、
絶対にアメリカと戦争すべきでないという認識で一致していた。

しかし、日本政府はアメリカとの対立を深めていき、
白州次郎は、日本は近いうちにアメリカと戦争すると考え、
昭和15年(1940年)、仕事から遠のき、
「農家になるよ」ということで、
東京の街中から鶴川村(現在の東京都町田市)の山村に引っ越して、
農業を始めた。

なぜ、白州次郎はこのような行動をとったのか。
白州次郎は近いうちに、日本はアメリカと戦争をする。
日本は必ず負ける。
また、東京などの大都会は空襲で焼かれ、
日本は食糧危機になると予想した。

そして、昭和16年(1941年)12月8日、
日本はアメリカに戦争をしかけた。
そして、戦争の結末は、白州次郎の予想通りになった。

白州次郎は、戦争の間、食料が困窮していくなか、
農地で栽培した食料を、知人の家に配ったり、
空襲で家を焼失した友人を自宅に招いて、
長い間、居候させて世話をしていた。


ちなみに、彼は、
この鶴川村の山荘の家の名前を、
その地が、かつて武蔵の国といわれた東京と
また、相模の国といわれた神奈川県の境近くにあったので、
それらの文字の最初の字をとって、
「武相荘(ぶあいそう)」と名付けた。

そして、敗戦後の昭和20年(1945年)に、
白州次郎は外務大臣になった吉田茂に請われて、
日本の占領政策を指揮するGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)
との交渉などを担当する終戦連絡事務局の参与に就任した。

その昭和20年の12月24日のクリスマスイブの日、
白州次郎は外務大臣の吉田茂の名代として、
GHQの最高司令官で絶対的な存在であったダグラス・マッカーサーに、
昭和天皇からのクリスマスプレゼントをマッカーサーの執務室に
届けにいった。

白州次郎は、マッカーサーにあうと、流暢な英語で挨拶をして、
昭和天皇からのマッカーサーへのクリスマスプレゼントをさしだした。

その時、マッカーサーには数多くのプレゼントが届けられていたことも
あったのか、
マッカーサーが、極めて事務的に、絨毯を親指で指して、

「その辺においといてくれ」


と言うやいやな、白州次郎は烈火の如く激怒して、

「これは、天皇陛下から足下(そっか)への贈り物である。
天皇陛下はこの国を統(す)べてこられた。
たとえ敗戦国の統治者からの贈り物とはいえ、
それなりの礼を尽くして受け取られるのが原則ということ
ではないか。にもかかわらず、その辺に置いておけとは
何事だ!」

そして、続けて、白州次郎はマッカーサーにこう言った。

「礼儀をわきまえぬものに贈り物を渡すことはできない。
持ち帰らせていただく」

この白州次郎のあまりの剣幕ぶりに、マッカーサーは
驚きうろたえ

「待ってくれ」と白州次郎に声をかけ、

マッカーサーは秘書官を呼び、
あらたなテーブルを用意させ、そして、白州次郎から
マッカーサーは、昭和天皇からのクリスマスプレゼントを
受け取り、うやうやしくそこの置いた。

そのようなできごともあり、
また、彼はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは
頑強に主張したことから
GHQの人たちから、白州次郎は
「従順ならざる唯一の日本人」と言われたりしたのであった。

その翌年の2月、
白州次郎はGHQと、新憲法制定の交渉に関わった。

その後、総理大臣になった吉田茂の内閣のもと、
昭和23年(1948年)に
当時の商工省の外局として設立された貿易庁の長官に就任する。

白州次郎は、日本の復興には、経済を立ち直らせねばならない、
そのために貿易立国として、成長していかなけねばならないと考え、
その政策を立案する官庁が必要だと考え、
商工省を改組して、通商産業省の設立に動き、
中心的存在となった。
その通商産業省は現在の経済産業省である。

このような活躍ぶりから、吉田茂から

「白州三百人力」

と評された。

その後、白州次郎は実業界にもどり、
東北電力の会長や様々な企業の取締役に従事してきた。

そのような実業をこなしつつ、
ファッションデザイナーの三宅一生の
ショーにモデルとして出演もし、
80歳になるまで、ポルシェを乗り回す人生を
過ごしてきた。


そして、白州次郎は、昭和60年(1985年)11月28日、
83歳で逝去した。

白州次郎の遺言に

「葬式無用 戒名不用」と記してあり、

葬式は行われず、墓石には戒名はない。



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