言霊・楽習社(がくしゅうしゃ) ~心豊かに、言葉を生み、人生を潤す~
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川面に浮かぶ都鳥を見て一句、「~や」という句切れを意識して作ってみた・・・・俳句を生み出す日本語の特徴が日本国民を芸術的な国民にしているという

今日は、2015年(平成27年)1月4日 日曜日

ふと、一句、思い立つ

さざ波や
 空に浮かびし
      都鳥


遠く離れたところの川面に
都鳥が浮かんでいるのが見えるが、
空の水色と
それとさざなみの川面の水色と一体化している。
そのような冬の川面にて
都鳥(ユリカモメ)が体を浮かせて羽を休ませているが、
それがまるで
羽を休めて羽ばたいていないのに、
まるで青空に浮かんでいるように見える都鳥
という意味である。

私は、この一句を考えるにあたって、

一句目の「さざ波や」、それも
特に「~や」にこだわった。

一句目が
「~や」で切れる句で有名なのは
松尾芭蕉の句で

夏草や
 兵どもが
    夢の跡


閑さや
 岩にしみ入る
     蝉の声

 
六月や
 峰に雲置く
     嵐山


など幾つかある。

これらの一句目の区切れの文字に「や」ではなく
本来の助詞を使えばどうなるか、
例えば、

閑さ「に」
 岩にしみ入る
     蝉の声
 
六月「の」
 峰に雲置く
     嵐山

それについて、
野内良三氏の著書
「偶然から読み解く日本文化」では
次のように説明している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「や」の代わりに本来の助詞を代入してよめば一読瞭然、
句の世界が狭くなり、平板化してしまう。
「や」は場を大きく設定して、それからおもむろに
語り出すという感じである。
「や」は句を二つに分け、段差(切れ)を作る。
「や」はゆるく包んで「意外性」をたぐりよせる。
俳句(発句)はこの意外性(小さな驚き)をよしとする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とある。

松尾芭蕉の

閑さや
 岩にしみ入る
     蝉の声


は、静かだというのに、蝉の鳴き声が響いては
やかましいのではないかと思わせるが、
蝉の声を聞いているうちに感じ取った
広大な天地に満ちる「閑さ」を心の中で感じ取った
ことをあらわしているという。

閑さやという静寂さを表す一句目の区切れを
「や」にすることで、蝉の声という喧騒さを感じさせる
光景の中で、「閑さ」を感じ取る意外性を
引き出している。

私は、松尾芭蕉のような味わい深い一句は
なかなか作れないが、
少し真似して、

さざ波や
 空に浮かびし
      都鳥


を作ってみた。

「さざ波」と言うと、川や海の水面の上で
発生する現象であり、
「さざ波」から急に「空」に変わり、
空では鳥は飛んで羽ばたいているはずなのに
浮かんでいるという「意外性」をたぐりよせるために
一句目に「や」という句切れにこだわった。

それは、
さざ波であると川面も揺れが小さく
水色の空との境界線がぼやけていて
水面と空が一体化しているように見え、
それゆえに、川面に浮いているはずの
都鳥が空に浮いているように見える。

一体化した空と川面に浮かび漂う都鳥を
表すために「意外性」をたぐり寄せる
「や」という句切れを用いたという感じである。

少し話は逸れるが、
水面と空の一体化というのは
小倉百人一首の
七十六 
法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)の

わたの原 漕ぎ出てて見れば ひさかたの
            雲居にまがう 沖つ白波


からヒントを得たものである。

 広々とした大海原に船で漕ぎ出して遠くを見渡してみると
   はるか遠くでは、雲と見間違うばかりに、沖の白波が立っている

という歌意であるが、

沖の白波と白い雲が混じり合って、
海と空の境界線がわからなくなっている光景を
「雲居にまがう 沖つ白波」と表現している。

そのような藤原忠通の歌をヒントにしながら、
「~や」の句切れの一句を作ってみた。

さて、「~や」などの俳句の「切れ」がもたらしたものに
ついて、先ほどにも引用した野内良三氏は
著書「偶然から読み解く日本文化」で次のように書き記している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俳句の「切れ」には日本語の統語原理の最高の表現が見られる。
日本語の特質を洗練し、芸術の域に高めたものが俳句である。
俳句は日本語の「容」偶然性をすばり体現している。
俳句は日本語の論理そのものだ。
多くの日本人が自分の思いを俳句に託そうとするのは、
けだし当然かもしれない。
世界を見渡しても日本人ほど「芸術的な」国民はいない。
これは日本語だからこそ可能なのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

野内良三氏は
西洋の文章は、全体が部分の流れを決める必然主義であるが、
日本の文章は、部分の自由(偶然)を許容する「容」偶然主義であり、
日本語は風呂敷のように何でも包みこんでしまう融通無碍な言語である。

と述べている。

それを読むと、
それゆえに論理的なつながりがなくても
感覚的な主観や感情の表現に日本語が適していて、
「~や」という句切れの表現で意外性をもった
つながりをもって俳句を作れたりするのだろうと思う。

そのような日本語の特性にふれながら
一句作ったのであった。

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