言霊・楽習社(がくしゅうしゃ) ~心豊かに、言葉を生み、人生を潤す~
語源や考えたこと、お気に入りの歌や発想法、雑学など、政治経済社会の時事ネタも書いたりしています。また、楽習社とは私の脳内にある架空の企業です。現実世界での所属組織や職業が変わろうとも、生涯、理系・文系を問わず、古今東西の学問を楽習(がくしゅう)して、生きていきたいので、架空の企業名を勤務先にしています。その会社を退職する時は私の人生が終焉する時です。.

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12月10日のできごと、明治34年12月10日、田中正造、鉱毒問題で明治天皇に直訴・・・「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし」

今日は、2014年(平成26年)12月10日 水曜日

明治34年(1901年)12月10日(火曜日)
当時、最高刑が死刑であった
天皇陛下への直訴を命がけで行った男がいた。

その男の名は、田中正造である。

田中正造は天保12年(1841年)、栃木県に生まれた。

その栃木県と群馬県の県境付近を流れる
渡良瀬川が上流の足尾銅山から流れ出た鉱毒によって、
明治時代、
沿岸地域の農作物が枯れて大きな被害を受けた。

栃木県の県会議員から、
明治23年(1890年)の第1回、衆議院選挙で当選し、
衆議院議員となった田中正造はたびたび
渡良瀬川の鉱毒問題について質問した。

しかし、欧米列強に追いつくため
富国強兵にまい進していた明治政府は
足尾銅山で採掘される銅を外貨獲得に利用していたことも
背景にあり、対策に消極的であったが、
農商務省と足尾銅山を所有している古河鉱業が
予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが
効果はあまりなかった。
なかなか改善されない鉱毒の公害に地元の農民達の怒りは爆発し、
明治33年(1900年)2月13日、農民達は
東京に陳情に出ようとしたところ、
群馬県の川俣村で警官と衝突し、流血の事態となり
多くの農民が逮捕される川俣事件が発生した。

その2日後と4日後に、
衆議院議員として田中正造は帝国議会において、

亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問

という質問を行い

民を殺すは國家を殺すなり。
法を蔑にするは國家を蔑にするなり。
皆自ら國を毀つなり。
財用を濫り民を殺し法を亂して而して亡びざる國なし。之を奈何。

右質問に及候也。


という文言から始まる日本憲政史上に残る大演説を行い、
このまま鉱毒問題を放置していると国が滅びると訴えた。

しかし、当時の内閣総理大臣であった山縣有朋から
「質問の意味がわからない」と答弁を拒否された。

衆議院議員として、正当な手続きで
足尾銅山による渡良瀬川流域の鉱毒被害の解決を訴えたが
政府は動かず、
明治34年(1901年)10月、田中正造は衆議院議員を辞職する。

おそらく、議会でいくら訴えても通じないならこれしかないと思ったのだろう。

そして、明治34年12月10日(火曜日)
東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇の車列に
紋付袴姿の田中正造が、右手に高く紙包みを差し上げて

「陛下!お願いがございます」

と直訴を試みた。ただ、警備の警官に取り押さえられ失敗するが、
その田中正造の直訴の行動は人々に衝撃を与え、
新聞に大きく取り上げられ、号外が配布されるほどで、
直訴状の内容は世の多くの方々に知れることとなり、
足尾銅山による鉱毒対策に政府として何らかの対応策を
せざるえなくなる。

その対策として、政府は
渡良瀬川下流に貯水池をつくり、そこに鉱毒に汚染された
河川の水を滞留させ鉱毒を沈殿させようとした。

そのため
栃木県の谷中村を廃村させ、谷中村を掘って
貯水池にしようとした。

その強引な政府の対応に田中正造は怒って、
強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。

その田中正造は大正2年(1913年)に鉱毒問題と戦いを続けた
生涯に幕を閉じた。

足尾銅山鉱毒問題は
昭和48年(1973年)銅を掘りつくされることで
足尾銅山は閉山し、鉱毒による公害は減少していった。

ただ、平成になった現代でも、
足尾銅山に由来する汚染のリスクが皆無になったわけではない。

平成23年(2011年)3月、
旧足尾銅山の下流の渡良瀬川で基準値の2倍の鉛が検出された。

その原因は、
東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震とその余震などで
旧足尾銅山の鉱泥堆積場が崩れて、
鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流出したことによるものである。

田中正造が命をかけて、明治天皇に直訴した
足尾鉱毒問題は平成の現代においても全て終わったわけではないのである。

日本初の公害問題と戦った田中正造が文明についてこう語っている。

真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、

村を破らず、人を殺さゞるべし


この言葉を目にすると、
田中正造の故郷の隣接県である福島県で
東北地方太平洋沖地震による原発事故で人が住まう村が
破られた状況を思うと、いろいろ考えさせられる言葉である。


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