言霊・楽習社(がくしゅうしゃ) ~心豊かに、言葉を生み、人生を潤す~
語源や考えたこと、お気に入りの歌や発想法、雑学など、政治経済社会の時事ネタも書いたりしています。また、楽習社とは私の脳内にある架空の企業です。現実世界での所属組織や職業が変わろうとも、生涯、理系・文系を問わず、古今東西の学問を楽習(がくしゅう)して、生きていきたいので、架空の企業名を勤務先にしています。その会社を退職する時は私の人生が終焉する時です。.

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六甲山はかつて、砂漠のような木々もない「はげ山」であった・・・明治後期から人々は緑あふれる六甲山に戻そうと尽力した

神戸港から神戸市全体を撮影すると
緑あふれる六甲山系の山々が写っている。

その六甲山であるが、
1881年(明治14年)、植物学者の牧野富太郎が
高知からの船旅で神戸港を入った時、
六甲山を見て、六甲山が白く見えたので、
雪が積もっているのかと見えたら、

実はそれは雪が積もっているのではなく
木々が生えずに
白い花崗岩の
多くの地表がむき出しになった
はげ山となっていた六甲山であった。

実は明治のころには
六甲山は木々が生えないはげ山になっていたのだ。

六甲山 はげ山 hm41-8

明治時代、神戸港沖から見た「はげ山」の六甲山
画像は
ブログ神戸だいすき より

六甲山がはげ山になっていく契機は
中世のころにあったようで、
その六甲山に軍事要塞としての
山城が築かれたりしたが、そのたびに
木々は切り倒され、また、戦火で
山城とともに山火事が発生することがあり
自然林は回復できないくらいに破壊されたりした。

やがて、
豊臣秀吉が、大阪城建設のために石垣に使う石を調達するため
六甲山から大量の花崗岩を切りだすため
「草木伐採勝手たるべし」との布令を出したため
木々の乱伐が進んだ。

そして、江戸時代、さらに幕末の神戸開港で
人々が多く住まうと、燃料調達のためさらに六甲山の木々は
伐採されつくし、明治時代の初期には、
六甲山ははげ山になっていたのだ。

はげ山となった六甲山は木々による防水機能が
著しく低下して、雨のたびに土砂災害が発生して、
植林の重要性が認識されるようになってくる。

そのはげ山になった六甲山を緑あふれる
六甲山に戻そうと
1902年(明治35年)から六甲山での植林事業が開始された。
それまでの杉や檜のような商業材を育てるための植林ではなく、
治水目的のため広葉樹林を中心とした植林は当時としては
画期的であった。

六甲山系の再度山(ふたたびさん)で松を中心とした植林事業を
はじめとして、
砂漠のような山肌に階段のような段々が切られ、
土砂が流れないように積み石で固定して、
砂防のためクロマツなど砂防樹を主にしながら
ヒノキ、スギ、カシ、シイ、ハゼ、カエデなどが
植林され、現代の緑あふれる六甲山に蘇ったのである。


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