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1917年6月19日「科学者の楽園」理化学研究所創設 〜 第3代所長の大河内正敏は科学者だけでなく、ある戦後の大政治家の卵を育てた
今日は6月19日、 この日は、日本の科学界において、 記念すべき日である。
1917年(大正6年)、 日本で初めて、自然科学の基礎研究および 応用研究を行う研究所である 理化学研究所が創設された日である。
1913年(大正2年)、 神経伝達物質「アドレナリン」の発見者である 高峰譲吉が国民科学研究所の必要性を提唱した。
それに、近代日本経済の大功労者である渋沢栄一が 呼応し、設立に動き出す。
1914年(大正3年)に、帝国議会の貴族院・衆議院の 両院に「化学研究所設立の請願」を提出し、 1915年(大正4年)に、第37回帝国議会で、 「理化学研究所創立」の法案が可決され、 1917年(大正6年)6月19日、 渋沢栄一を設立者総代として、 皇室からの御下賜金、政府補助金、 岩崎氏(三菱)、三井財閥など 民間からの寄付金を資金として、 「理化学研究所」が創設された。
初代所長 菊池大麓(東京帝大総長、文部大臣歴任) 物理部長 長岡半太郎(原子モデルの提唱者) 化学部長 池田菊苗 (グルタミン酸ナトリウム=「味の素」の発明者) 創設時の研究者には ビタミンB1(オリザニン)発見者の鈴木梅太郎などが いた。
1918年に第1次世界大戦が終戦したあと、 急に景気が悪化したこともあり、 理化学研究所の資金繰りは悪化していた。
そのようなピンチな理化学研究所に活気を 与えた人物は 1921年に第3代理化学研究所所長に 就任した大河内正敏である。
大河内正敏は1911年(明治43年)に 34歳の若さで東京帝国大学教授に就任、 1915年(大正4年)には、貴族院に当選していた。
大河内正敏が所長に就任していた時は 43歳であったが、既に研究所には 長岡半太郎、鈴木梅太郎など大御所的な 先輩研究員がいる。
そこで、大河内正敏は 物理・化学部制度を止めて、 「主任研究員制度」を取り入れた。 それは、 研究室を独立させて、 主任研究員に研究テーマ、予算、人事を 一切自由に行えるようにする制度であった。
主任研究員は各帝国大学の教員と兼務をしても良いし、 帝国大学に理化学研究所の研究室を設けることも 許可した。
資金的に余裕がない理化学研究所であったが、 「ちまちま研究しても大した成果がでない」と 考え、研究者達が欲しい機材や文献購入に 惜しみなく資金供給をした。
ただ、もともとない金を大盤振る舞いしていたら、 資金は足りなくなってくる。
そこで、大河内正敏は、研究所で産出した成果を 売り物にすればいいということで、 商売を積極的に行うこととなる。
そのような最中の1924年 鈴木梅太郎研究室の研究員 高橋克己がビタミンAの抽出に成功した。 当時、ビタミンAは壊れやすく抽出は困難だと 考えられ、ビタミンAが含まれるタラの肝油が 結核患者などに提供されていたのだが、 それが、まずくて、口に入れるのは嫌なものであった。
高橋克己はわずか1ヶ月でビタミンAの抽出に成功し、 それを大河内正敏は研究所内で量産化を図り、 ビタミンAをゼラチンカプセルに詰めて 「理研ビタミンA」として36錠入り2円で販売すると、 大ヒット商品となった。 1925年には100万円以上の売上になったが、 高橋克己に10万円の成功報酬を与えた。 これが研究員のやる気を刺激した。
この高橋克己のビタミンAの抽出研究を支援した X線回折の研究で著名な 大物研究員物理学者寺田寅彦のサポートを 得ていた。 寺田寅彦は、夏目漱石の弟子で 夏目漱石作の「三四郎」に登場する 理科大の研究者野々宮宗八のモデルだとされる。
寺田寅彦は 「金平糖の角の発生」「線香花火の研究」など ユニークな研究を行った。
1927年(昭和2年)、大河内正敏は、 理化学興業株式会社を設立し、 研究成果の事業化にさらに勤しむ。
合成酒、マグネシウム、工作機械、ゴム、飛行機用部品 などを製造販売する会社を次々と設立、 理研コンツェルンが形成されていく。 特に1936年に設立された陽画感光紙を製造する 理研感光紙株式会社は 現在のコピー機やプリンタで有名なリコーとなっている。 青じそドレッシングを製造している 理研ビタミン株式会社も理研コンツェルンから生まれた 会社である。
理研コンツェルンから生まれた売上は 理化学研究所を潤した。 1939年の 理化学研究所の収入の 収入は370万円に達したが、 そのうちの約8割は理研コンツェルンからの 収入であった。
同年の理化学研究所の研究費は約230万円 であったので、大幅黒字で、資金的に余裕が ありありであり、研究者達はお金の心配をすること なく研究に没頭できた。 そのような理化学研究所は 「科学者の楽園」と言われた。
その理化学研究所からは 後に、ノーベル物理学賞を受賞する 湯川秀樹、朝永振一郎など 優秀な研究者が輩出された。
さて、この理化学研究所は 研究者だけでなく、ある大政治家の 無名の若き日々を支えることとなった。
その政治家とは田中角栄である。
田中角栄は新潟から出て、 建築関係の会社で仕事をしていたが、 ある個人が営む個人建築事務所に通うようになった。
そこは理化学興業の下請けであった。 田中角栄は中央工学校を卒業すると その個人建築事務所に通っていた 男とともに19歳で「共栄建築事務所」を 設立。
理研の大河内正敏は若き田中角栄に 「理研関係会社に籍をおかなくともよいから、 建設計画について勉強しなさい」 と声をかける。そこから田中角栄は 1937年(昭和12年)ごろから 理研関係の建設工事を次々と行っていく。
大河内正敏は当時20歳の 田中角栄の行動力と頭の回転の速さを 高く買っていた。
1939年(昭和14年)に、田中角栄 兵役に就き、建設の世界から離れたが、 1941年(昭和16年)に、病気のため 除隊し、田中建築事務所を、 1943年(昭和18年)には、 田中土建工業を設立し、 理化学工業関係の仕事を次々と行い 急成長する。 1945年(昭和20年)の終戦時には朝鮮半島で 理化学工業関係の建設事業を行っていた。
その翌年の1946年(昭和21年) 田中角栄は衆議院選挙で初当選する。
そう、政治家になる前の田中角栄に 力を蓄えるきっかけを与えたのは 理化学研究所の大河内正敏であったのだ。
大河内正敏は、科学者だけでなく 大政治家の卵を育てたのだ。
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