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溶けないソフトクリーム・・・・・・「もったいない」という思い、何でも試してみて、偶然を活かす意志

ソフトクリームを食べる時、
いずれ溶けてきて、ベトベトすることが難点で
あったが、溶けないソフトクリームがあるというのを知った。

それは、出張先の福井県敦賀市の敦賀駅前の喫茶「pine」で
テレビを見ていたら、

地元のテレビ局が特集をしていた。

溶けないソフトクリームを開発したのは
石川県金沢市で
食品・化粧品等の企画・研究開発・製造・販売をしている
株式会社日本海藻食品研究所である。

日本海藻食品研究所では、
豆腐製造時にできる副産物である「おから」を
用いた健康食品を開発してきた。

その「おから」を使って溶けないソフトクリームを開発したのだ。

日本海藻食品研究所の会長の白石さんは
海に行ったとき、
豆腐からの廃棄物であるおからが捨てられて
海が白く濁った光景を見て、
「もったいないなあ」と何か活用できないかと
思い、「おから」を用いた食品開発をしてきて、
「おから」からパンやドーナッツを作ってきたが、
ある日、クッキー作りに用いてあまった
牛乳におからを混ぜて、ソフトクリームを
作ったところ溶けにくいことに気付いた。
もともと、白石さんはソフトクリームが大好きで、
溶けないソフトクリームがあればいいなあと
思っていたので、この偶然の発見を活かそうと
金沢大学の教授と共同研究をして、
おからペーストと米粉を配合させ
溶けないソフトクリームを完成させた。

その溶けないソフトクリームの比較実験は

常温24時間経っても溶けないソフトクリームを動画で検証! 気になる味は!?
(トレンドニュース) 

で見ることができる。

溶けないソフトクリーム スタート

溶けないソフトクリーム 15分後

このように既存のソフトクリームに比べて
溶けにくいこがわかる。

そして、2009年3月に
常温に1時間置いても形状を保つ
溶けないソフトクリームを
同社の販売所である
「Healthy Lab(へるしぃらぼ)」を通じて
販売を始めた。

ソフトクリームの原料の40%に、超微粒子
の乳化作用のあるおからペーストを用いた。
おからの栄養分はそのままで、
ソフトクリームのカロリーは従来品の半分に
抑えたヘルシーなものになっている。

販売直後はあまり知られていなかったが
2009年5月ごろ
地元金沢の経済新聞に取り上げあれて
売上があがり、その後全国紙にも
取り上げられるようになった。

相当人気があり、
この商品を取り上げた
金沢経済新聞では

ヘッドラインニュース金沢経済新聞・上半期PV1位は「溶けないソフトクリーム」

と注目の高さがうかがえ、ヒット商品となっている。

溶けないソフトクリームは
現在、石川県、大阪市、長野市、宮城県、名古屋市、香川県、山形県
の店舗で売られていて、

私が住む関西では

Healthy Lab osaka
大阪市浪速区日本橋3-8-21
TEL:06-6643-0147
営業時間:11:00〜

で買うことができる。

評判は海外にまで広がっているようで、
注文が来ているという。

この
溶けないソフトクリームの開発のルーツを探ると、
会長の白石さんの

「もったいない」という気持ちであった。
あのノーベル賞の田中耕一さんもノーベル賞受賞の
開発は、「もったいない」と思って、失敗で生まれた偶然を
活かしたことであった。

そして、ふとした偶然で見つけたことをきちんと
活かしたことである。

また、もともと
「溶けないソフトクリームがあればいいなあ」という願望を
抱いて、それを実現させたいという思いがあったことも
大きい。

また、
クッキー作りに用いてあまった
牛乳におからを混ぜてみようと
いろいろ思いついたアイデアを試したことも大きく、
「おから」を活かしたいという気持ちが強かったのだろう。

「もったいない」という思い、
おからを活かしたいという思い、
いろいろ思いついたアイデアをやってみようという行動力、
そして、偶然を活かす意志、

これらの白石さんの性格が
「溶けないソフトクリーム」の開発に
つながり、
そして、溶けないソフトクリームで
人々の気持ちを潤してくれるのであった。


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もったいないの語源
ノーベル級の言葉〜世界に広がる和製漢語「勿体無い(もったいない)」

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テーマ:ヒット商品列伝 - ジャンル:ビジネス


京都「エイラクヤ」の復刻手拭い 〜 温故知新のヒット商品、在庫に眠っていた昭和初期の手拭いで、起死回生

京都に
創業が江戸時代の初期の元和年間(1615年〜1625年)の
「永楽屋細辻伊兵衛商店(株式会社エイラクヤ)」という
繊維製品製造販売業の店がある。

この店は代々、手ぬぐい・タオルなどを販売してきた。

グローバル化の流れのなかで、
1990年代後半になると
中国やベトナムから大量に
輸入される低価格のタオルに販売を奪われ、
店の売り上げが激減していた。

そのような状況で
1999年
細辻聡和氏が14代細辻伊平衛として、社長に就任した。

細辻氏は、1964年生まれで、
自動車メーカーのエンジニアを経てアパレル業界へ転職し、
1990年
イタリアブランド「マウリツィオ・ボナス」店の
店長を務め高い実績を残した後の
1992年
株式会社エイラクヤ入社した。

そして、1999年に社長に就任した時、
エイラクヤは倒産寸前で、
「利益率の低いタオル問屋では生き残れない」
このままでは経営は成立しなくなると考え、
25名いた社員を8名に削減し、タオル卸売りから撤退した。

どのように事業を立て直すか模索していた時、
在庫の整理をしようと考えた、倉庫に眠っていた
昔の商品を取り出した。

すると、
「スキーをする舞妓」や「モガ(モダンガール)」をテーマにした
明治から昭和初期にかけての色鮮やかなデザインの
手ぬぐいが数万柄出てきた。

エイラクヤは
昭和初期には手ぬぐい専門の絵師を数人抱え、
頒布会を主宰するほどに手ぬぐいに力を入れていた。
その時の在庫が残っていたのだ。
思わぬ宝が見つかったということだろう。

細辻氏はとっさに「これはおもしろい、これは売れる」と感じ、
さらに、腕のいい絵師が集まった京都ならではのデザインと、
美しい色合いのある手ぬぐいを復刻させれば、タオルに替わる商品になると確信した。

ただ、復刻させるためには乗り越えなければならない課題があった。
誰が作るかという問題だ。

既に、20世紀末の日本では、昭和初期のころにいた
高い技術を持つ染色業者や生地を作れるメーカーが
すぐに見つからない状況になっていたのであった。

高い技術を持つ生地、染色業者を全国に探し歩いて
やっと製造してくれる業者を見つけ商品化にたどりついた。


そして、ただ、手拭いを手や体を拭くという今までの
使い方だけでは用途は広がらないということで、
新しい使い方を提案した。
手拭いをポスターのようなフレームに入れて
インテリアアートとしての用途、
ファッションとして、頭に巻いたり、
ジーンズなどにも合わせたりして色遊びができるような
手拭いの用途

そのような新たな使い方を提案した。

ただ、新たな使い方と言うよりもこの使用法も
復刻版とも言えるかもしれない。

江戸時代には手拭いは
ものを包んだり、被りものとして使ったり、
宣伝用途等に使われていたという。

歌舞伎役者が家紋や、独自の紋様を入れた手拭いが憧れとなり、
手拭いの柄はその時代の流行や文化を表すファッション性の
高いものとして庶民の生活に浸透していたようだ。


ただ、現代に合わせた新用途ということで、
手拭いを素材に使ったハンカチやかばん、ポーチなども商品化し、商品数は500以上に広がった。

2000年4月に会社の一角に店を設け、
さらに、手拭いの良さを訴求するため
ギャラリーも併設し、昔の手ぬぐいを見てもらえるようにした。

今まで、手拭いに馴染みのない世代にもアピールできるように
手ぬぐいを頭に巻いたマネキンやタペストリー用の棒を置き、
新しい使い方を伝えた。

最初は世間に伝えることは難しかったが、
口コミや
京都ブームに乗じて、「京都の〜」とアピールしたり、
マスコミが取り上げたり
することで、
全国的に有名になり、
店には顧客が絶えず訪れる状態になり、
主力商品となった。

多様な商品化はさらに進み、
手拭いを素材に使った洗顔クロス&メガネ拭き、
ガーゼ手拭マフラー、 コサージュ等がある。


これらは普通の手拭いより高付加なので、
値段はコサージュで4700円前後、バッグでは
12600円もするものがある。


ただの体を拭く手拭いでは、大量生産の海外品に負けるが、
新たに付加価値のある使い方を提案し、
江戸時代からの老舗・明治昭和初期の遺産という歴史に価値を
見出しブランド化することで、高く売れるようにしているのだ。



このエイラクヤの復刻手拭いのヒットは
過去に立ち返ることで、新しいアイデアが生まれる成功事例と言えるが
まさに温故知新によるヒット商品と言える。



関連リンク
yooko_nee さんのブログ
「街ヲ歩ク。」の
「おかえりやす。」

エイラクヤの手拭いの商品が紹介されています。
「よーすべりますなぁ。」という舞妓姿の女性がスキーを
している柄の手拭いが見られます。




このブログでの関連リンク
風呂敷 〜 風呂で使われた敷物は時代と共に変化する
風呂敷の語源の紹介の記事で、京都の風呂敷屋が新しい風呂敷の用途を提案している例を紹介




テーマ:ヒット商品列伝 - ジャンル:ビジネス


大ヒット緑茶「伊右衛門」 〜 顧客の本音を引き出す質問を投げかて、大ヒット商品が生まれた

京都府の南部にある木津川市山城町に
とある老舗のお茶の製造販売の会社がある。

その名は「福寿園」。

福寿園は、寛政二年(1790年)
創業したのは福井伊右衛門である。

「伊右衛門」と言えば、
サントリーの主力緑茶商品であるが、
その「伊右衛門」という商品名は
福寿園の創業者である福井伊右衛門に
由来している。


さて、このサントリーの緑茶「伊右衛門」は
どのようにして誕生したのであろうか。


この「伊右衛門」開発の中心人物は
沖中直人氏である。
沖中氏は、1991年にサントリーに入社し、
「続のほほん茶」などの開発で見習い経て、
名実とも初のプロジェクトリーダーとなり、
そして、2001年「熟茶」というプーアル茶ベースの
茶を世に打って出たが、売れ行きが大不振で
1年で生産中止に追い込まれ、
「社内史上最悪の失敗」とまれ言われた。
その苦い経験が、「伊右衛門」開発につながるのである。

上司の斉藤部長は、この失敗について、
沖中氏を責めなかった。

斉藤部長は
「失敗の原因を徹底分析することで、ヒット商品開発の確率が
高くなる。何度も失敗して、辛酸を舐めた分だけ、
力が蓄積される。そのような開発者の方が、成功への
近道につながる。そして、弱気になり挑戦する意欲が
なくなることが最も良くない」
と考えていた。

沖中氏も、辞職することも脳裏によぎったが、
「辞めたら負け犬で終わる」と思い、奮起、
早速、「熟茶」の失敗原因の分析に入る。


失敗原因を簡単に要約すれば、

「開発者の考える最高の味、品質、商品が自己陶酔になり、
時代の空気、消費者の嗜好を読めていなかった。」

ということだった。


失敗した「熟茶」の開発の過程で、どのような
失敗原因があったのか?

中国の雲南省で、雲南原産のプーアル茶を見つけた。
旨みもあるが渋みがある緑茶に対して、
渋みがなく旨みだけのプーアル茶なら
差別化できると考えた。
そして、プーアル茶は発酵すれば
健康成分が多くなり、かつ、まろやかな旨みがあるが故に
中国で「神秘のお茶」と珍重されていた。

そのような優れたお茶である事実を集め、
物語として伝えれば、お客に伝わると思い込んだが、
2001年当時は、失われた10年という長期停滞の
日本社会において、「内向きな気分」が漂っている中で
「中国の新しいお茶」を提案しても、お客に響かなかった。

旨みもあるが渋みがある緑茶に対して、
渋みがなく旨みだけのプーアル茶という差別化も
単なる平面的なポジショニングであり、
お客さんには意味がなかった。

そして、清涼飲料水はコンビニで売られ、まず一度手にとってもらい「とりあえず買って飲んでもらう」ことが重要であるが、
プーアール茶は、日本人には馴染みが薄いため、
第一印象で買ってもらうことができなかった。



沖中氏達は
このように「熟茶」失敗の原因を分析し、
再起を胸に抱いていた。

2002年の夏のある日
別のチームが企画していた緑茶飲料の内容が
不評だったため、社内競合のプランを立ち上げるように
部長から急遽命じられた。


沖中氏達は
「熟茶」の失敗から
「いくら、素材が良くても、消費者をおざなりにした商品開発ではヒット商品は生まれない。」という
経験から、

・日本人にとって「お茶」とは、どんな存在で、その本質は何か?
・顧客は何を求めているのか?

それを徹底的に調べないといけないと考えた。
ただ、よくありふれた消費者調査だけでは、
表面的なニーズしかとらえることができない。

もっと掘り下げ、消費者自身が日常あまり考えていない
潜在的な根源的な意識を探る必要があると考えた。

その方法として、
新茶の開発に向けてウェブ調査を行った。

どうして、ウェブ調査なのか?


Face to Face のインタビューで、
顔が見える状態では本音を出しにくい日本人には
合っていないと考えたからだ。

そして、質問の内容も
回答者の潜在意識を浮き上がらせることを
狙ったものだった。

例えば、

「急須で入れたお茶は人・モノ・動物等に喩えると」


という質問があった。

そのような質問された方は、喩えを考えだすために
自分の原体験を反駁しないと
答えられない。それゆえに答えは深層心理で感じていることが
出てくる。

他に

「1年間、お茶を禁止する法案が可決しそうになったら、どのように反論するか」

「外国人にお茶の味を誉めるとしたら」

このようなすぐには返答できないような質問を投げかけることで、
懸命に答えを考えてくれた。


それに対する回答から次のように分析した。

「缶コーヒーとお茶飲料は大人の哺乳瓶」
という結論であった。

誰しも経験のあるお茶を飲むと「ほっ」とするあの感覚。ほんのり昔を思い出す、そんなどこか懐かしく安らげる

IT化、グローバル化が進んでも、
お茶を飲むとき、日本古来の生活文化に触れ
心が和み、安心する

それが、日本人にとっての「お茶の本質」であると
考え、次のような方針を打ち立てた。

ペットボトルのお茶でも、そのような安心感を提供し、
緑茶飲料に日本の生活文化の味わいを持たせること。


商品コンセプトとして、

「安心感と日本の生活文化の味わいを提供すること」


そして、そのためには
急須から淹れ立てのような本格派のお茶を目指さないといけない。
そのためには、コクや旨みを損なわないことが
重要であった。

しかし、従来の製造方法に問題があった。
従来の製法では、お茶を過熱殺菌するのだが、
ペットボトルが耐性温度が85℃なので、
85℃で過熱殺菌するのであるが、
85℃では過熱が不十分なため
抗菌力が強い渋み成分のカテキンを多く含み
旨み成分の少ない茶葉を使わざる得なかった。

そうであるならば、過熱殺菌しない方法が必要となる。
完全無菌ルームでペットボトルに充填すればいいのだ。

その方法は他のメーカーはすることはなかった。
なぜなら、そのための設備投資に100億円かかるからだ。

しかし、沖中氏は、その方法と取ることに決めた。


ただ、
新しい高度技術による製法を用いれば良いのかと言えば、
そうでなかった。

企業イメージの調査で

伊藤園・・・・「伝統的な製法」「茶畑のすぐそば」

とあるが、一方

サントリー・・「ウイスキー工場の片隅」


という回答があった。

いくら、サントリーが最高茶葉を用いて
最新テクノロジーで製造しても、
サントリーだけでは顧客に響かないと考えた。

そこで、沖中氏らが目をつけたのが、

寛政二年(1790年)創業の老舗の名門製茶メーカーである
福寿園であった。
老舗の福寿園との共同開発となれば、
お茶の本質を追究しているというイメージを
顧客に持ってもらえると考えた。


福寿園に提携をもちかけたのだが、


「うちのお茶は家業であって、事業ではない。サントリーさんがやっているのは緑茶事業であって、うちの考えとは相容れない。家業を次の代に引き継ぐのが使命で、そのようなリスクの高い話に乗れない」

とあっさり断れたが、
沖中氏はあきらめず、福寿園に説得を続ける。
そして、沖中氏は思いを次の言葉に託して伝えた。


百年品質、上質緑茶


寛政二年(1790年)創業で200年間
茶葉にこだわってきた福寿園と
明治32年(1899年)創業で100年間
水と製法にこだわりを持ってきた寿屋(サントリー)が
対等に組んで百年品質の商品を作る。

その沖中氏の思いに、福寿園は
サントリーの本気さを感じ、
また、サントリーの技術力に納得し、
サントリーとの共同開発に応じた。




福寿園がサントリーとの共同開発に応じた理由として、
福寿園の福井社長は次のように語っている。


福寿園は『無声呼人』(声なくして人を呼ぶ、徳のあるところには、呼ばれなくても人が集まるという意)という家訓のもとに京都の地で二百有余年茶業を営んできましたが、業を継いできた先人は茶づくりの伝統の術を活かしながら、つねに新たな時代の技術やビジネスを取り入れて家業を発展させ、日本の心を伝えてきました。つまり伝統というものは、歴史と未来を融合させた”足し算の発想”によって継承されるものなのです。そして、二十一世紀の福寿園がこれから将来に渡って価値ある存在であり続けるためには、明日のために何をするのかが問われていると、私は考えました。明日のために福寿園はどんな足し算ができるのか、と」



明日、一人でも多くの人々にお茶のおいしさを知ってもらい、お茶の価値を感じていただくためには、一人でも多くの人においしいお茶を飲んでいただかなければならないのです。そのためにはまず、急須で淹れるお茶よりはるかに手軽に飲める、本当においしい緑茶飲料をつくることに価値があると考えました。ですから、いままでの緑茶飲料とはまったく違う本物のお茶のおいしさを商品化した緑茶飲料を、サントリーさんと一緒につくってみようと決断したのです



『なぜ、伊右衛門は売れたのか』/峰如之介 より



伝統というものは、歴史と未来を融合させた”足し算の発想”によって継承されるそのような福井社長の思いがあり、
サントリーと福寿園は
互いに真に高品質な茶を作るという思いとゴールを
共有した。

一方、社内に大きな壁があった。
完全無菌ルームでの非加熱無菌充填をするための
100億円の高額な設備投資に
経営陣の抵抗を防ぐかであった。

まず、福寿園の茶匠が200種類の茶葉から選んだ
最適のブレンドの現物を飲んでもらい、
顧客の本音によるデータという裏づけを用いて、
沖中氏は経営陣の抵抗に一歩も引かず、
説いた。

そして、沖中氏は経営陣を次のように説得する。


船に乗るのか乗らないのか。初の国産ウイスキーを
作って日本人の誇りを呼び覚まし、豊かな生活文化を
志向してきたのがサントリーです。
今、本物の緑茶飲料を作る。これに共感できなければ
サントリーの人間ではない。


と、サントリーに企業理念を錦の御旗にして
半ば脅かしで決断を求めた。


ヒット商品を作れるようになるには
沖中氏の上司の斉藤部長は次のように言っている。

責任者は否定的意見を言っておけば責任が回避できる。だから優れたセンスの企画がボツになるかつまらなく修正されてしまう。負けないで説得できるようにならないといけない。


沖中氏は、経営陣という責任者に負けないで説得するだけの
蓄積を重ねてきたのだ。


さて、ペットボトルのパッケージをどのようにするのか?
当初、沖中氏らは
「急須で淹れたお茶のおいしさ」を再現することを方針としていたが、
サントリーのコピーライターの方が

急須のお茶なんて、いまどき誰も飲んでいない。
急須のお茶が飲めないから、緑茶飲料を買って飲んでるのだ。

と急須という考え方に待ったをかけた。

また、可愛いデザインのパッケージも考案されたが、
コアターゲットが
30代〜60代の社会人男性なので、却下された。

そこで、沖中氏は
どのようなパッケージが良いのか思案していた。
そして、ある日、昼食用に買った竹の皮で包まれた
おにぎりが美味しく感じた。

その時、

「最もおいしいお茶を最もおいしく見えるパッケージにしよう」と

竹筒の水筒のイメージが沸き、竹筒方のボトルを
新商品の緑茶のパッケージにすることにした。


そして、新商品名に
福寿園創設者の福井伊右衛門にちなみ
「伊右衛門」とすることにした。

発売前、福寿園の方々に
創業者の名前である
「伊右衛門」という商品名のパッケージを見せると
福寿園の社長以下全員が絶句したという。
親族会議を経て、了承した。
最後は社長の仏前で先祖にうかがったという。




そして、「伊右衛門」のCMをどうするか?
CMでは顧客の本音ベースの調査から考えれれた演出が
なされた。

コアターゲットとなる
30代〜60代の社会人男性のモニターに
何処で、どんな時に、どのような飲み物を飲んだかについて
日記に記述してもらったところ、
「仕事の一服」として、
お茶飲料や缶コーヒーを飲むことがわかった。

そこから、コアターゲットの潜在意識まで考え出された
イメージが、先程にも紹介したように
「大人の哺乳瓶」であった。

そこから、ホッとする時間、癒しという連想で
「働く男が帰りたくなる家」というCMテーマが決まった。

伊右衛門役として、元シブガキ隊の俳優の本木雅弘が、
妻役を宮沢りえが
「働く男が帰りたくなる家」というCMテーマに基づき
一途に茶作りに打ち込む夫を優しく包むように支える妻
という演出がされた。

この本木雅弘と宮沢りえを起用したCMは
話題づくりに成功し、売り上げアップに寄与することになる。
このCMシリーズは
CM総合研究所主催の
「CMが貢献したヒットBrand大賞」を
2年連続で受賞する。



商品を選んでもらう時、
ネーミングやパッケージを見たオジサンに
考えさせては駄目、2秒でどれを買わせるか
決めさせないといけいないと
言われるが、

コンビニの冷蔵ケースの扉を開けた時、
竹筒方のパッケージは思わず手にしたくなる形であり、
「伊右衛門」というネーミングも
惹きつけられるものであった。
「伊右衛門」の表示の横には
「京都福寿園」の表示があり、
お茶がわかる人には老舗ブランドという一流品と
感じさせるものである。


また、そのことを知っていなくても、
思わず手にした竹筒型
パッケージにある次の説明文

「伊右衛門」は寛政二年(1790年)
京都に創業した「福寿園」の創始者に
ちなんで名付けています。
福寿園の茶匠が厳選した茶葉を使用。
「純水」で淹れたさっぱりとしたお茶に
「山崎の天然水」淹れたコクのあるお茶を合わせました。
さらにひとつつまみを加えた「石臼挽き茶葉」が
お茶の甘味を引き立てます。


という説明文を読めば、価値が伝わる。
そして、実際に飲めばコクがあり旨みがあり
おいしいので、リピーターが増える。

その結果、1年目から
3420万ケースを出荷する大ヒット商品となった。

この大ヒット商品はコンセプトに切れがあることが重要であるが、
大企業では、決済の判子を押す人が増えると
修正されまくってしまい、コンセプトの原型が失われ
切れが薄れることがある。
しかし、「伊右衛門」の開発に関して言えば、
開発の開始から最後まで、企画のプレゼンに行っても
判子(決済)の数はほとんどゼロで、
また、コンセプトの原型喪失防止のため
沖中氏は担当役員を同志として巻き込み、
決済の手続きを省略する戦術を取り、
役員もそれを受容したという。

そのようなことが可能であったのは、
「とにかくやってみなはれ」という
サントリーの社風が影響していると考えらる。


その「とにかくやってみなはれ」で開発した
「伊右衛門」は
顧客の本音ベースを引き出す問いを投げかけたことで
顧客が共感する物語を作ることが可能となったとことで
大ヒットしたのだろう。



引用文献

野中郁次郎の成功の本質第25回
(リクルートワークス「Works Apr.-May」2006 p45〜49)



このブログでの関連リンク

アナロジーを用いた命題化とヒット商品
「伊右衛門」以外に他のヒット商品に関して記述しています。


現代の伝記〜「プロジェクトX」終了
「とにかくやってみなはれ」に関係すること









テーマ:ヒット商品列伝 - ジャンル:ビジネス


メロディアン・ミニ 〜 後発組の企業が、時代の先を読み、思い切った投資と弛まず開発を追及

コーヒーのミルクフレッシュで
「メロディアン・ミニ」という製品がある。

これは、大阪府八尾市にある
「メロディアン」が製造・販売している製品である。

この会社は
1958年に
戦前に牧場を経営してした中西喜三郎氏が
娘婿の大久保吉蔵氏と息子の中西啓詞氏とともに
牛乳メーカー「日興乳業」として設立された。

創業当時大阪には既に30社の乳業会社があり、
最後発組だったため、ブランド力が弱く、
苦戦を強いられていて、
業務用の製品へと軸足を移していった。

1970年代のころには
家庭用コーヒーはインスタントで、ミルクも粉末であったが、
中西喜三郎社長は、やがて到来するであろう
レギュラーコーヒーの時代になれば、
ミルクも「本物のおいしさ」が必要になると考えていた。

また、業務用のビン入りクリームはあったが、
家庭で使う少量パックは少なかった。

乳製品の賞味期限を長くしてほしいという顧客のニーズに応えるため、
常温保存ができる保存期間の長いロングライフ牛乳の
時代が来ることを予想して、
当時、会社の売上高が10億円規模であったが、
8億円かけて、
充填前に無菌処理をするラインシステムの設備投資に踏み切った。

それにより、常温で60日間の保存が可能となり、
ロングライフミルクを紙パックで売り出した。

国内初のロングライフ牛乳製造システムに
全国から同業他社の見学者も多く訪れた。


1976年
大手紙パックメーカーの協力を得て、
ロングライフ商品として、
コーヒー1〜2杯分の10mlのクリームを充填した
三角形のテトラパック入りのコーヒー用フレッシュ
「メロディアン・ミニ」の発売を開始した。

そのころ、中西喜三郎社長が旅先の
スイスの街角で、
ポーション容器を見かけた。
彼は「この容器の方が、消費者に好まれるのでは」と
考え、独ボッシュ社の協力を得て、
1億8000万円の費用をかけて、
現代のタイプである
丸いポーションタイプの
コーヒー用フレッシュ「メロディアン・ミニ」の販売を開始。

当初の予想通り、
レギュラーコーヒーが家庭でも普及し始めたことにあわせて、
丸いポーションタイプの「メロディアン・ミニ」は
瞬く間に売れ始め、その年の年末には
工場をフル稼働しても生産が追いつかないほどの
大ヒット商品となった。


ただ、
この丸いポーションタイプは
封を開けたときに中身が飛び出すという問題があったが、
パッケージに開封シールを貼る際に、底を押さえ、
シールを貼った後に底が戻って容器内の体積が増やし、
陰圧の性質を利用して、
開封する時に空気を吸い込み、クリームが飛び出さなくする
「スプリングボトム」という方式を開発し、特許を取得した。

この方式の特許化により、競合他社に優位性をもつ
こととなる。
ポーションタイプのコーヒーフレッシュの国内市場で
2位に2倍近くの30%のトップシェアを占めている。



テーマ:ヒット商品列伝 - ジャンル:ビジネス


シュレッダー 〜 時代の先を読み、うどん製麺機をヒントに開発し、ハードではなく「文書を裁断するというスタイル」を売った。

企業では、大量の印刷・コピーなどが行われるが、
その印刷・コピーされた紙には機密情報があり、
その情報漏えいを防ぐためにも欠かせないのが
シュレッダーである。


そのシュレッダーを開発したのが、
明光商会の創業者の高木禮二氏である。

彼はリコーの子会社でコピー機のセールスマンを
していた。
普通、他のセールスマンは2〜3台/月売るぐらいで
あったが、
高木氏は自分でアフターサービスの社員を5名雇ったりして、
その結果、20台/月も売り上げ
その結果、給料が歩合給のため、
社長の給料の3万円を6倍以上の20万円となり、
社内のバランスがとれなくなり解雇されてしまった。

稼ぎすぎてクビになってしまったのであった。

高木氏はその後
1956年に明光商会を設立する。
はじめは、複写機の現像液を販売し、
月商は3000万円を計上するようになったが、
それだけでは不安に思い、
新たな事業を考えていた。

顧客先のオフィスが書類の山になっている状態を
よく見ていた高木氏は
コピー機の価格が低下するにつれコピーは普及し、
企業は大量の紙ごみの処理と、その紙に印刷された
機密情報の処理が大きな課題になってくるだろうと
予想して、製品開発に取り掛かった。

どのように紙を処理するか、その方法について
高木氏は試行錯誤を繰り返す。

文字を薬品で消す方法、凍らせて粉砕する方法、
書類をドロドロの粘土状にして水に流す方法、
コンクリートで固める方法など考えたが、
そうすると、余りにも、設備が大きくなりすぎるので
良くなかった。
そのように試行錯誤を繰り返しても
良い答えが出なかった。

そのような時、高木氏は
子供のころ社会見学でグリコの工場に行った時の
ことを思い出した。
その工場の製造工程で、
こねられたうどんの粉が機械を通過すると、
細長く裁断されて出てくる光景が脳裏に蘇った。
高木氏は
「これだ!」と閃き、
細長く裁断すれば、簡単に捨てられ、紙に書かれた内容も
わからず機密保持につながり、
そして、古紙回収で紙のリサイクルもしやすくなる。

うどんの製麺機をヒントにシュレッダーは完成し、
1960年に販売を開始する。

画期的な新商品はすぐに売れたわけではなかった。

まだ多くの企業は
「不要なゴミ文書をどうしてわざわざ細かくして捨てる
必要があるのか」
という意識であり、多くの社員はその意識を変えるほどに
訴求はできなかった。

高木氏は、
東芝やキューピーなどの大企業の担当者にアピールして
とにかく使ってもらった。
ただ、とにかくできたばかりのものなので、
故障が多く納入して3日もしないうちに発生したが、
すぐに駆けつけ、重さ50キロのシュレッダーを
引き取り修理し、すぐに取引先に戻すことを繰り返した。

ただ、企業はシュレッダーを使うことの意義や利便性を
理解し、また、故障すれば50キロの製品を何度も運んで修理して、
戻す作業を繰り返しているうちに
故障が多いのが手抜きでなく、貧乏なのでそうなっていると
同情してもらって、ほとんどの会社に現金で買ってもらえる
ようになる。



また、高木氏が
「シュレッダーというハードを売っているのではく、
文書を裁断するというというスタイルというソフトを売っているのだ」
という発想から、
「秘密を守りながら、もとが取れる」
というコンセプトを掲げ、
機密文書を裁断して情報管理をしながら、
裁断した紙は古紙屋に売るというスタイルを
アピールしていくことで、
徐々に企業にシュレッダーは広まって行き、
1964年の産業スパイ事件で
企業の機密保持の重要性が認識され、
大きく売り上げを上げていくようになる。

やがて、他の
大手家電メーカーなど80社がシュレッダー市場に
参入してきたが、
高木氏は
他社はコストと収益計算で考えただけ作られた
製品であり、
ただ、「ハードを売っている」限りは他社には
負けないと考えていた。

一方で、ライバル企業の参入を予想して、
自社ブランドにもこだわらず、大手家電メーカにOEM生産を
持ちかけて、早々にOEM生産に取り掛かっていた。


そうしていると、他社の多くはシュレッダー市場から
撤退していき、明光商会の立場は強化されていった。

そして、石油ショックの時、
トイレットペーパー騒動などもあり
古紙の再利用の重要性が認識され、
シュレッダー販売の新たなコンセプトとして
「地球のことを考えるために必要です」
というフレーズが付け加えられ、
「MSリサイクルシステム」
「MSリサイクルシュレッダー」などの
大型シュレッダーの製造・販売に取り組かかり、
明光商会はより大きく飛躍し、
シュレッダー市場で7割以上を占める
リーディングカンパニーになっている。


参考リンク

アクティブシニア・高齢者マーケティング特定の鍵「シルバーエンターテインメント」


高木禮二名誉会長インタビュー(イノベーティブワン)



このブログでの関連リンク


グリコのことが少し出たので
ポッキー 〜 悩み抜いた挙句「チョコなしの持つ部分」を作り、時代と風土の空気を吸収し、新たな価値を提案し続けてきた

トイレットペーパー騒動のことが少し出たので
エイプリル・フール〜「ウソも100回言えば本当になる」 、「デマ」となるか「ピグマリオン効果」になるか
1973年のオイルショックの時のトイレットペーパー騒動発生の経緯について書いています。
 


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