言霊・楽習社(がくしゅうしゃ) ~心豊かに、言葉を生み、人生を潤す~
語源や考えたこと、お気に入りの歌や発想法、雑学など、政治経済社会の時事ネタも書いたりしています。また、楽習社とは私の脳内にある架空の企業です。現実世界での所属組織や職業が変わろうとも、生涯、理系・文系を問わず、古今東西の学問を楽習(がくしゅう)して、生きていきたいので、架空の企業名を勤務先にしています。その会社を退職する時は私の人生が終焉する時です。.

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和歌山県日の岬沖にて、昭和32年の冬、日本人救助のため荒海に飛び込み殉職したデンマーク人の名前を現代の日本人の多くは知らないだろう

今日は、2017年(平成29年) 4月 2日 日曜日

先週、NHKで、おはようにっぽんを見ていたら、
わが故郷の和歌山県御坊市の隣町の美浜町の日の岬で、
今年の2月10日に行われた
あるデンマーク人への慰霊式での献花の会の様子の小さな特集を
放送していた。

そのデンマーク人とは、
ヨハネス・クヌッセンという人物である。

彼はやがて日本政府から勲章を贈られることなった。
ただ、それは彼がもう生存していないときだった。
亡くなったから勲章を贈られたという
表現が適切かもしれない。

クヌッセンが勲章を贈られることになったできごとが
発生したのは、昭和32年(1957年)2月10日の夜であった。

その日、名古屋港から神戸港に向って、
デンマークの海運会社マースク社所属の
貨物船エレン・マースク号が
和歌山県の日の岬沖の紀伊水道を航行していた。
その日は波風が強い日であった。

そのエレン・マースク号に2週間前に
機関長に就任したばかりの
ヨハネス・クヌッセンが乗船していた。

日の岬沖を航行中、エレン・マークス号の乗員達は
近くで炎上している船を発見した。

エレン・マークス号は直ちに救助に向かい
炎上している船に近づいた。
炎上していたのは徳島県にある機帆船・高砂丸であった。

炎上している船上で逃げ惑う船員らの姿が見えた。
エレン・マークス号から
高波が荒れ狂う海上にて、
救命艇が降ろしたり、
様々な方法で、生存が確認できていた
日本人乗組員1名を助けようと試みた。

その日本人乗組員は何とか、
エレン・マークス号から降ろされた縄梯子に
つかまり、上がっていったが、
力尽きて、縄梯子から荒れ狂う海に落下してしまった。

その時だった、

おれが助けに行く!!

荒れ狂う海に落下した日本人を助けようと
機関長の
ヨハネス・クヌッセンが海に飛び込んだ。

クヌッセンは海上で一度は日本人をぐっと抱えて
助けたが、その瞬間荒れ狂う大波に2人とものまれて、
消えてしまった。

翌朝、日の岬の近くの日高町田杭の海岸で
クヌッセンは遺体で発見され、
また、その近くで、
胴体部分に大きな裂け目ができた
エレン・マークス号の救命艇が発見された。

そのことで、
田杭の住民達は大騒ぎとなり、
現場に駆けつけた御坊警察署長から
クヌッセンが荒海の中、助けるため海に飛び込んだ
ことを聞き、
「そんなことは人間のできることではない。」と驚いたという。

日本人よりも体格の大きいクヌッセンの遺体が入る棺桶が
無かったため、特別に彼のための棺桶が作られた。
享年39歳である。

彼の勇敢有る行為に、遺体発見から2日後には、
美浜、日高両町や関係機関で
クヌッセンのための遺徳顕彰会が発足した。

クヌッセンの命がけの行動に
当時の日本で大きな話題となり、
日本政府は勲五等双光旭日章を贈った。

クヌッセンを称えるため
事故現場近くの日の岬パーク内に
昭和32年6月に顕彰碑が設置され、
昭和37年にはデンマーク人の彫刻家によって作られた
クヌッセンの胸像が設置された。

また、彼の遺体が発見された
日高町田杭地区では、
彼の供養塔があり、その清掃管理を地域住民が
当番制で現在も行い続けている。

平成29年(2017年)は、
ヨハネス・クヌッセン機関長の
生誕100年、没後60年、
また日本と機関長の母国・デンマーク王国の
外交関係樹立150周年にあたることから、
今年の2月10日の
日の岬パーク
ヨハネス・クヌッセンの慰霊式には、
デンマークのメテ・ボク文化大臣が参列した。

また、ボク文化大臣は
クヌッセンの供養等を守り続けている
日高町田杭地区に感謝状を贈呈した。

その後、ボク文化大臣は
御坊市にあるわが母校
日高高校を訪問した。

日高高校は、ヨハネス・クヌッセンの故郷にある
デンマークのフレデリクスハウン高校と
姉妹校関係である。

ボク文化大臣は、
日高高校で、合唱部が歌う
ヨハネス・クヌッセンを称える曲を聴き、
講演を行った。


私は、大学進学を契機に
故郷を御坊市を離れ25年
になるが、
御坊市の隣町の美浜町の西端にある
日の岬には、幾度か行ったが、
その時、クヌッセン胸像や顕彰碑を
見て、クヌッセンの勇敢な行動を思い返した。

クヌッセン c

画像は
大阪ガスすずらん会 銅像特集 
ヨハネス・クヌッセン 中田安造さん 
より

日の岬パークにあるクヌッセン顕彰碑には

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

同じく海に生きるものを救おうとして殉職した
国境を越えた同氏(クヌッセン)の国際愛は
日本とデンマーク両国だけでなく世界各民族の
親愛と平和の推進に光明をかかげたものである。
永く其の遺徳を称へ、其の冥福と航海の守護を
祈願する為、紀州灘を一望に望む 
この地に、碑を建てて、其の功を顕彰する。

昭和三十二年七月一日 
ヨハネス・クヌッセン機関長遺徳顕彰会

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

全く面識のない日本人のために殉職した
デンマーク人のヨハネス・クヌッセンの遺徳を
知っている日本人は少ないだろう。

わが故郷に縁のある
ヨハネス・クヌッセンの遺徳を
より多くの日本人に知ってもらえたらと
切に願うのである。



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もし、昭和20年8月15日に終戦しなかったら、あなた方(日本人)の両親や祖父・祖母が亡くなり、あなたが存在していなかったかもしれません

今日は、2016年(平成28年)8月 15日 月曜日

8月15日は、第2次世界大戦終戦の日であり、
日本にとって、敗戦の日である。

昨日、テレビで、昭和20年8月15日までの
当時の鈴木貫太郎内閣内での
日本の終戦処理をめぐる内容を描いた
映画「日本のいちばん長い日」を放送していた。

鈴木貫太郎は戦争を終わらせることを考えていたが、
陸軍内部の徹底抗戦で本土決戦を主張するグループとの
暗闘が描かれていたが、
同年の8月8日になって、
ソ連が日ソ中立条約を破棄して、対日参戦をしてきても
陸軍内部で、男子15歳から60歳、
女子17歳から40歳まで根こそぎ徴兵した
国民2600万人を動員して、本土決戦を
しようと考えていて、まあ、その大局観のないことに
あきれるしかなかった。

鈴木貫太郎は、ソ連が対日参戦した以上、
ドイツのように米ソに分断占領されるリスクをおそれ、
一刻も早く、日本に無条件降伏を求める
ポツダム宣言を受け入れなければならないと考えた。

陸軍の意向などから、なかなかポツダム宣言受託が
難しい中、鈴木貫太郎は立憲君主制の慣例を破って、
昭和天皇にポツダム宣言受託の御聖断を仰ぐ方法をとった。
陸軍大臣の阿南惟幾は、昭和天皇の意向に従い、
徹底抗戦を主張する陸軍内部の倒閣運動やクーデター計画を
すすめる強硬派の暴発を抑えるべく動く様子が
映画では描かれていた。

終戦の方向に動き、8月14日の夜に昭和天皇が
ポツダム宣言受託の玉音放送の録音をしたが、
8月14日の深夜から翌朝の早朝にかけて、
戦争継続を主張する陸軍強硬派の一部が反乱を起こし、
昭和天皇の声明を録音した
玉音放送のレコードを奪い取ろうとしたが失敗に終わる。

そして、8月15日の朝に、
陸軍大臣の阿南惟幾は割腹自殺を図るが、
映画で、阿南惟幾を演じる役所広司が
刀で腹を切り、そして、意識が朦朧とするなか
首の頚動脈を切ろうとしているシーンには
見入ってしまった。

それにしても、8月15日に終戦しなくて、
それ以降に遅れてしまったら、北海道がソ連に
占領されて、北海道が現在もロシア統治下に
なっていたかもしれない。

もし、陸軍強硬派がクーデターに成功して、
戦争を継続していたら、
昭和20年11月には、アメリカ軍は
南九州を占領するオリンピック作戦を実行して、
その翌年の3月には、関東平野を占領する
コロネット作戦を実行しようとしていた。

沖縄県民の4人のうち1人が
亡くなった沖縄戦のような凄惨な地上戦の激闘が日本本土でなされていたら、
より多くの戦死者が発生して、
現在の我々日本人の両親や祖父・祖母がその時に亡くなって
いた可能性があり、そうなると今の自分がいなかったかもしれない。


そう思うと、昭和20年8月15日に日本が戦争を終えた
ということが、よりわがことのように思えるものであり、
日本人にとって、重大な歴史的な事実として
認識しておいたほうがいいと思える。

ちなみに、私の母方の祖母は鹿児島県大隅半島最南端の集落に
住まいしていた。オリンピック作戦の巻き添えになって
いたかもしれなず、私はこの世に存在していなかったかもしれない。
実際、昭和20年8月15日に終戦したため
オリンピック作戦は実施されず、祖母は戦禍を逃れ、
私の母は昭和22年2月20日に生まれている。

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「お開き」の語源から、「敗戦」を「終戦」と言ってしまう日本人にある根深いものを思う

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子供は何でも楽しんで遊び場にする・・・高度経済成長期の電車が走らない駅の線路にて



今日は、2016年(平成28年)6月 4日 土曜日

先日の1日に、西宮市役所に用事があり、
そのついでに、市役所の東館8階で、

第18回歴史資料写真展
「酒ぐらの裏小路-旧西宮町の街-」

をしていたので、見てみた。

そこで注目したのが、阪神電鉄の今は亡き西宮東口駅の
昭和34年(1959年)に撮影された
「ストの日の西宮東口駅」
という写真である。

西宮東口駅 160601_0951~001

ストライキの影響で、電車が運休され、
そのため子供たちが普段は入れない駅中の線路に入って
遊んでいるのだ。

レールの上に乗って、平均台のように遊んだりと
子供はなんでも遊んで楽しむことができる才能があるのだなあと
思うのであった。

西宮東口駅は、明治38年(1905年)に開業され、
近くに市場があったり、近くの女学校があったり、
主要な行政機関があったりして、
近くの阪神の西宮駅よりも年間利用者数が多い駅であった。
しかし、同駅は、
平成13年(2001年)に、阪神電鉄が高架化されたことに
ともない、隣の駅の阪神西宮駅に統合され廃止された。

今は亡き駅であるが、かつて、高度経済成長期の電車が走らない日に
子供の遊び場になった何気ない日常の歴史のひとこまを
見ることができてよかった。

ちなみにこの写真展は6月6日までしているようだ。


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東日本大震災から5年、命がけで住民の避難誘導をして避難民の命を救った殉職警官を思い出す

今日は、2016年(平成28年)3月 9日 水曜日

東日本大震災から5年経つが、
あの日、あの時、仙台市若林区荒浜で、
巨大津波が迫る中、命がけで
避難誘導をして殉職した警官がいた。

その警官の名は、
仙台南署荒井交番の渡辺武彦巡査部長(享年58)である。

渡辺巡査部長は、超巨大地震の発生後、仙台市若林区荒浜で、
同僚3人と交通整理や避難誘導にあたっていた。

その時、ある26歳の女性が仙台市宮城野区の勤務先から、
子供を預けている保育園の宮城県の岩沼市に向かって、
南下して走行していた。

若林区荒浜の交差点にさしかかった時、避難誘導にあたっていた
年配の警官をみかける。その警官が渡辺巡査部長である。

その女性が、渡辺巡査長が警棒を振り回しながら
真剣な表情で、

内陸に行け!!!

声を張り上げられて、南下していた方向を変えて、
西の方の内陸に向かった。

やがて、内陸に向かうその女性の車に
津波が押し寄せてくるのが見え、
車を乗り捨て、盛り土で高くなっている
仙台東部道路に避難して、津波に呑まれることなく
助かった。

その女性を含め多くの方を避難誘導していた渡辺巡査部長がいた
交差点の現場では、同僚の警官の方々のうちひとりが、
轟音とともに水しぶきをあげ巨大津波が迫っているのに気づき、
他の同僚らとともに住民をパトカーに乗せて、逃げたが、
渡辺巡査部長の姿はなく、
6日後の朝、現場から100mほど離れたところの
民家の玄関先で箪笥の下敷きになって亡くなっている姿が発見
された。

翌月、渡辺巡査部長を殉職したことを知った
その26歳の女性は、
「警察官の誘導がなかったら死んでいた。渡辺さんがいなかったらだめだった」と
夫と長男とともに渡辺巡査部長が勤務していた荒井交番に感謝の花を届け、
管轄の警察署を通じて、その花を渡辺巡査部長の妹さんが受け取った。
その妹さんは、
「最後まで警察官の職責を果たし、1人でも多くの命を救おうとした兄を
誇りに思います」と語ったという。

命をかけて、住民の避難誘導にあたり、少しでも市民・住民の命を
守ろうとして殉職した警察官がいたことを東日本大震災5年にあたり、
ふと思い出すのであった。

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新・映像の世紀の独裁者ヒトラーの特集を見て・・・その時々の政治家や企業家の思惑が史上最大の戦争を引き起こす独裁者誕生に手を貸していくことになるとは考えていなかっただろうなあと思う

今日は、2015年(平成27年)12月 23日 水曜日

先日の日曜日、NHKの「新・映像の世紀」の
第3集「時代は独裁者を求めた」で、
ヒトラー政権の誕生から第2次世界大戦にかけての
特集があったが、
20年前の「映像の世紀」の第4集の
「ヒトラーの野望」と同様に興味深いものであった。

ヒトラー政権誕生の経緯を見ると、
ふと、実業家や政治家のその時々の利害・思惑が、
世界の歴史の大きな激流をもたらしていく結末に
なるとはその時は誰も思っていなかっただろうと
ふと思った。

ヒトラーは、もっとも先進的で民主的な憲法を持つとも
いわれた第1次世界大戦後のドイツのワイマール憲法の体制下
において、選挙という民主主義な手続きで議員数が
第1党の地位を占めて、その後、首相になっていく。

ヒトラーの主張がドイツ国民に受け入れられていった
ひとつの背景に、第1次世界大戦で敗戦国となったドイツに
対して、ベルサイユ条約で課せられた過酷な賠償にあったとも
考えられている。

ベルサイユでの講和会議で、敗戦国ドイツに過酷な賠償を
率先したのはアメリカの財閥であったモルガン商会などである。

モルガン商会はイギリスなどに多額の戦費を貸し付けていて、
それの回収を確実にするためにも、
ドイツがイギリスなどの戦勝国に賠償を支払わせることが
必要だと考え、そうなるように積極的に動いた。

これが結果的にドイツ国民に大きな不満と鬱積を蓄積し、
そのドイツ国民の心理をくすぶり支持を高めていったのが
ヒトラーであったのだ。

ただ、ヒトラー率いる政党のナチスは議会の第1党になったが
過半数を占めておらず、ヒトラー政権誕生の当初は連立政権であった。

ナチスと連立政権と組んだ古参の政治家は、
ヒトラーを成り上がり者と見下していて、
政権をとって2ヶ月もすればダメになるだろう、
ここはヒトラーの人気を利用して、政権に関わろうと魂胆であったが、
ヒトラーは政権をとると、すぐに独裁権確立のために動く、
それが、議会の承認なしにヒトラー内閣が法律を制定できる
全権委任法の制定であった。

そして、ナチス以外の政党を認めない法律を
ヒトラー内閣は制定する。

そう、それは議会の承認を経て制定された
全権委任法に基づいて、ヒトラー内閣が出した法律なので、
ヒトラー内閣に参加していた他の連立政権の政党は文句は言えない。

このように、ヒトラーの独裁権の確立は
もっとも民主的な憲法ともいわれたワイマール体制下のドイツにおいて
選挙と議会での手続きという民主的かつ合法的な手続きで
成されたのであった。

ヒトラーを利用しようとした古参の政治家はまさか
自分の政党が認められなくなるとは考えていなかったかもしれない。

そして、そのヒトラーがやがて史上最大の戦争を引き起こして
いくことになるとも想像していなかったかもしれない。

ヒトラー政権が国民から支持を得続けた理由のひとつに
失業問題の解決があった。

世界大恐慌で大量の数百万の失業者が出て、失業率が40%にも
なったドイツであったが
ヒトラー政権は失業対策として公共事業を大掛かりに始める。

その公共事業のひとつがドイツの高速道路である
アウトバーンの建設であった。

また、国民の雇用を重視し、機械でできる作業も人力でさせ
より多くの失業者を雇えるようにした。

そして、独裁者ヒトラーは大衆にも自動車を乗れるように、
その大衆たちが運転する車がアウトバーンを走行できるようにするのだと
考え、
ポルシェに設計を依頼させ、大衆車を作らせ、
そのもとに作られたのが、ドイツで国民車を意味する
「フォルクスワーゲン」であった。

そして、ヒトラー政権の労働政策として、実施されたのが
週休2日、週40時間労働、ワークシェアリング、福利厚生の充実と
国民生活の向上につとめた。

また、一方で公共事業となったのが
ベルサイユ条約を破棄して再軍備に取り掛かり
軍需生産を増大させていった。

そのような政策などで、
ヒトラー政権下のドイツにおいて、
失業問題をわずか数年で解決し、経済を安定させ、
世界大恐慌からいち早く抜け出すことに成功して、
「ヒトラーの奇跡」とも言われ、ドイツ国民からの
ヒトラーへの支持が高まったのであった。


そのように経済が復興するナチスドイツに
アメリカの大企業が次々と投資をしていき、
ヒトラー政権のドイツの国力を高める機能を果たしていく。

それに危惧を抱いたドイツ駐在のアメリカの外交官が
本国に警鐘をならす報告を送っていたが、
アメリカの企業家はお金儲けができるとそんなこと
関係なくナチス政権のドイツに投資していく。

そのナチスドイツがやがて、日本とともに
アメリカと戦争をするということは全く考えて
いなかったのかもしれない。


その時々の企業家や政治家がその時々の利害打算で
動いた結果、独裁者ヒトラーの誕生に手を貸すこととなり
それが史上最大の戦争となった第2次世界大戦という惨劇
につながっていくとは、全く考えていなかったのではないかと
思う。


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