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言霊・楽習社(がくしゅうしゃ) ~心豊かに、言葉を生み、人生を潤す~
語源、雑学など、時事ネタなど。また、楽習社とは私の脳内にある架空の企業です。所属組織や職業が変わろうとも、生涯、理系・文系を多様な知を楽習(がくしゅう)して、生きていきたいので、架空企業名を勤務先にしています。それを退職する時は私の人生が終焉する時です。当ブログ各記事に誘うための目次専用ペ ージはカテゴリートップにあります。PCページは画面左サイドに、スマホ画面からは下のマークの真ん中からカテゴリーにいくことができます

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令和5年元日に、30年前の平成5年をふりかえる・・・55年体制崩壊、不況深刻化、米不足、Jリーグ発足など

今日は、令和5年(2023年)1月 1日  日曜日

本日から令和5年(2023年)が始まった。
ふと、令和5年の30年前の和暦年は平成5年であった。

元号令和と前の元号の平成には、ちょうど30年の差があるので
30年前の平成5年(1993年)の主な出来事について
ふりかえってみようと思う。

国内政治において、
6月に衆議院で内閣不信任案が可決され、与党の自民党が分裂。
7月の第40回衆議院議員総選挙において、自民党の議席が減り、
8月には、さきがけ・新生・日本新党の新党3党に加え、
社会・公明・民社・社民連・参院の民主改革連合によって
非自民・非共産連立政権である細川内閣が発足、55年体制の崩壊した。

ちょうど、この年の8月6日の夜、
TBSでは、細川内閣成立の報道特番をしていたが
その間に、鹿児島市周辺で集中豪雨が発生して、
国会中継からときどき、洪水が発生している
鹿児島市内の様子を中継していたりしていた。

8月1日からの鹿児島県内で大雨が降り、
8月1日と8月6日の大雨で71名が亡くなっている。

この年は、梅雨前線が長期間日本に停滞し、いったん各地方に
梅雨明け宣言が発表されたものの、
気象庁は8月下旬に沖縄県以外の梅雨明け宣言を取り消すような
天候不順となり、
この夏の日本は、記録的な冷夏となった。
その記録的冷夏の原因のひとつに
その2年前に、フイリピンのピナツボ(ピナトウボ)山が
20世紀最大の火山噴火を発生、
放出された大量の火山灰が成層圏にまで達し、
世界中の日射量を長期間にわたり減少したことにより
日本では、東日本の夏の平均気温は平年より
1.5度も下がり、冷夏となり、米が大凶作となり
日本国内はコメ不足となり、12月には
各国からの米輸入を決定した。

この年の6月
現在の天皇陛下・皇后陛下の御夫妻がご成婚された。
当時、皇太子であった徳仁親王は
外務省で勤務していた小和田雅子さんと結婚された。

その翌月の7月の12日、
北海道奥尻郡奥尻町北方沖の日本海海底を震源とする
マグニチュードは7.8の大地震が発生して、
特に震源に近い奥尻島では巨大津波が襲来、
また、津波により集落で津波火災が発生した。

奥尻島を中心に死者・不明者合わせて230名を出す
大災害となった。


スポーツ面では、
サッカーでプロサッカーリーグのJリーグが発足、
そのJリーグに、ブラジル代表で黄金のカルテットとして
活躍したジーコ選手、

1986年のメキシコW杯で得点王となった
元イングランド代表のリネカー選手、

西ドイツ代表の一員として1990年にW杯制覇に
選手として貢献したリトバルスキー選手

などの海外からの大物選手が参加、
鹿島アントラーズの選手であった
ジーコ選手は、鹿島アントラーズのJリーグ開幕戦で
いきなり、Jリーグ初となるハットトリックを達成した。

Jリーグで盛り上がった日本のサッカーは
そして、日本代表はワールドカップ初出場を目指した
アジア予選の最終戦のイラク戦で出場のためには
勝利が必要なイラクにアディショナルタイムまで
1点リードしながら、アディショナルタイムに同点に
追いつかれ、ワールドカップ初出場を逃して、
試合が行われたドーハにちなみ
ドーハの悲劇と言われた。

国際社会においては、
マーストリヒト条約が11月に発効して、
ヨーロッパの加盟国の共通外務・安全保障政策を進め
単一通貨ユーロの導入のために「経済通貨同盟」
を実現する手順も、この条約で規定されている条約が
発効した。

さて、ヨーロッパが経済の統合に向けて動く中
世界第2の経済大国として昭和の終わりから
平成元年にかけて、大きな存在感をしめしていた
日本の経済は、バブル崩壊による大不況で
経済成長率が年度ベースでマイナス0.5%と
第一次石油危機の昭和49年度(1974年度)以来
19年ぶりのマイナス成長となった。

そのようなことがあった平成5年から
30年経った令和5年の今思うことは
日本政治の55年体制崩壊をもたらしたのは
政治とカネの問題に対応するための
選挙制度を通じた政治改革をめぐることであったが、
この時、日本社会にいる大部分の方々は
はバブル経済崩壊がもたらす
深刻な影響を見抜けていなかった。

このことがらが日本経済が30年も低迷し、
日本の衰退をもたらしていくひとつの
きっかけになっていくことを将来を全く
想像できていなかった。

私は、細川政権時に成立した
小選挙区比例代表並立制の選挙制度は
日本政治にとってはマイナスだったと思っている。
この時、選挙制度のことなんかよりも
バブル経済崩壊後の経済をどうするかに
注力すべきだったと思うが、
その深刻さに気付けなかったのだろう。



言霊・楽習社(がくしゅうしゃ)ブログの目次ページ
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語源や雑学などカテゴリーごとに分類して、当ブログの過去の各記事へのリンクページに誘っています。

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部隊が全滅して、生き残りひとり洞窟にいた日本兵が、同じくひとり生き残り、洞窟に現れた米兵を殺さなかった理由

今日は、令和元年(2019年) 9月 1日 日曜日

昨晩のNHKのラジオ深夜便で
8月31日午前2時前のころ、
第2次世界大戦の体験談についての投稿が
いろいろ紹介されていた。

そのうちのひとつに投稿者本人が体験者ではないが、
祖父の戦地での体験を聴いた内容についてであった。

(記憶が曖昧な部分があるので、一部不正確な部分があるかもしれません)

その方の祖父が戦地で、自分の属する部隊がほぼ全滅状態になったが、
生き残り彼がひとり洞窟にいると、米兵がひとり現れたという。

敵兵を見たら殺せと指導されていたが、彼はそうしなかった。

その理由は

ただ、人を殺したくなかった

ということだった。その米兵も所属部隊がほぼ全滅状態になったようで
ひとり洞窟にきたようで、

その米兵も日本兵の彼を殺そうとはしなかった。

彼(投稿者の祖父)は、少々英語が話せたようで、

その米兵も

人を殺したくなかったようだ。

彼(投稿者の祖父)は、やがて、米軍の捕虜となることで、
無事生還でき、この時の体験を孫に伝えることになった。




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和歌山県日の岬沖にて、昭和32年の冬、日本人救助のため荒海に飛び込み殉職したデンマーク人の名前を現代の日本人の多くは知らないだろう

今日は、2017年(平成29年) 4月 2日 日曜日

先週、NHKで、おはようにっぽんを見ていたら、
わが故郷の和歌山県御坊市の隣町の美浜町の日の岬で、
今年の2月10日に行われた
あるデンマーク人への慰霊式での献花の会の様子の小さな特集を
放送していた。

そのデンマーク人とは、
ヨハネス・クヌッセンという人物である。

彼はやがて日本政府から勲章を贈られることなった。
ただ、それは彼がもう生存していないときだった。
亡くなったから勲章を贈られたという
表現が適切かもしれない。

クヌッセンが勲章を贈られることになったできごとが
発生したのは、昭和32年(1957年)2月10日の夜であった。

その日、名古屋港から神戸港に向って、
デンマークの海運会社マースク社所属の
貨物船エレン・マースク号が
和歌山県の日の岬沖の紀伊水道を航行していた。
その日は波風が強い日であった。

そのエレン・マースク号に2週間前に
機関長に就任したばかりの
ヨハネス・クヌッセンが乗船していた。

日の岬沖を航行中、エレン・マークス号の乗員達は
近くで炎上している船を発見した。

エレン・マークス号は直ちに救助に向かい
炎上している船に近づいた。
炎上していたのは徳島県にある機帆船・高砂丸であった。

炎上している船上で逃げ惑う船員らの姿が見えた。
エレン・マークス号から
高波が荒れ狂う海上にて、
救命艇が降ろしたり、
様々な方法で、生存が確認できていた
日本人乗組員1名を助けようと試みた。

その日本人乗組員は何とか、
エレン・マークス号から降ろされた縄梯子に
つかまり、上がっていったが、
力尽きて、縄梯子から荒れ狂う海に落下してしまった。

その時だった、

おれが助けに行く!!

荒れ狂う海に落下した日本人を助けようと
機関長の
ヨハネス・クヌッセンが海に飛び込んだ。

クヌッセンは海上で一度は日本人をぐっと抱えて
助けたが、その瞬間荒れ狂う大波に2人とものまれて、
消えてしまった。

翌朝、日の岬の近くの日高町田杭の海岸で
クヌッセンは遺体で発見され、
また、その近くで、
胴体部分に大きな裂け目ができた
エレン・マークス号の救命艇が発見された。

そのことで、
田杭の住民達は大騒ぎとなり、
現場に駆けつけた御坊警察署長から
クヌッセンが荒海の中、助けるため海に飛び込んだ
ことを聞き、
「そんなことは人間のできることではない。」と驚いたという。

日本人よりも体格の大きいクヌッセンの遺体が入る棺桶が
無かったため、特別に彼のための棺桶が作られた。
享年39歳である。

彼の勇敢有る行為に、遺体発見から2日後には、
美浜、日高両町や関係機関で
クヌッセンのための遺徳顕彰会が発足した。

クヌッセンの命がけの行動に
当時の日本で大きな話題となり、
日本政府は勲五等双光旭日章を贈った。

クヌッセンを称えるため
事故現場近くの日の岬パーク内に
昭和32年6月に顕彰碑が設置され、
昭和37年にはデンマーク人の彫刻家によって作られた
クヌッセンの胸像が設置された。

また、彼の遺体が発見された
日高町田杭地区では、
彼の供養塔があり、その清掃管理を地域住民が
当番制で現在も行い続けている。

平成29年(2017年)は、
ヨハネス・クヌッセン機関長の
生誕100年、没後60年、
また日本と機関長の母国・デンマーク王国の
外交関係樹立150周年にあたることから、
今年の2月10日の
日の岬パーク
ヨハネス・クヌッセンの慰霊式には、
デンマークのメテ・ボク文化大臣が参列した。

また、ボク文化大臣は
クヌッセンの供養等を守り続けている
日高町田杭地区に感謝状を贈呈した。

その後、ボク文化大臣は
御坊市にあるわが母校
日高高校を訪問した。

日高高校は、ヨハネス・クヌッセンの故郷にある
デンマークのフレデリクスハウン高校と
姉妹校関係である。

ボク文化大臣は、
日高高校で、合唱部が歌う
ヨハネス・クヌッセンを称える曲を聴き、
講演を行った。


私は、大学進学を契機に
故郷を御坊市を離れ25年
になるが、
御坊市の隣町の美浜町の西端にある
日の岬には、幾度か行ったが、
その時、クヌッセン胸像や顕彰碑を
見て、クヌッセンの勇敢な行動を思い返した。

クヌッセン c

画像は
大阪ガスすずらん会 銅像特集 
ヨハネス・クヌッセン 中田安造さん 
より

日の岬パークにあるクヌッセン顕彰碑には

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

同じく海に生きるものを救おうとして殉職した
国境を越えた同氏(クヌッセン)の国際愛は
日本とデンマーク両国だけでなく世界各民族の
親愛と平和の推進に光明をかかげたものである。
永く其の遺徳を称へ、其の冥福と航海の守護を
祈願する為、紀州灘を一望に望む 
この地に、碑を建てて、其の功を顕彰する。

昭和三十二年七月一日 
ヨハネス・クヌッセン機関長遺徳顕彰会

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

全く面識のない日本人のために殉職した
デンマーク人のヨハネス・クヌッセンの遺徳を
知っている日本人は少ないだろう。

わが故郷に縁のある
ヨハネス・クヌッセンの遺徳を
より多くの日本人に知ってもらえたらと
切に願うのである。



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もし、昭和20年8月15日に終戦しなかったら、あなた方(日本人)の両親や祖父・祖母が亡くなり、あなたが存在していなかったかもしれません

今日は、2016年(平成28年)8月 15日 月曜日

8月15日は、第2次世界大戦終戦の日であり、
日本にとって、敗戦の日である。

昨日、テレビで、昭和20年8月15日までの
当時の鈴木貫太郎内閣内での
日本の終戦処理をめぐる内容を描いた
映画「日本のいちばん長い日」を放送していた。

鈴木貫太郎は戦争を終わらせることを考えていたが、
陸軍内部の徹底抗戦で本土決戦を主張するグループとの
暗闘が描かれていたが、
同年の8月8日になって、
ソ連が日ソ中立条約を破棄して、対日参戦をしてきても
陸軍内部で、男子15歳から60歳、
女子17歳から40歳まで根こそぎ徴兵した
国民2600万人を動員して、本土決戦を
しようと考えていて、まあ、その大局観のないことに
あきれるしかなかった。

鈴木貫太郎は、ソ連が対日参戦した以上、
ドイツのように米ソに分断占領されるリスクをおそれ、
一刻も早く、日本に無条件降伏を求める
ポツダム宣言を受け入れなければならないと考えた。

陸軍の意向などから、なかなかポツダム宣言受託が
難しい中、鈴木貫太郎は立憲君主制の慣例を破って、
昭和天皇にポツダム宣言受託の御聖断を仰ぐ方法をとった。
陸軍大臣の阿南惟幾は、昭和天皇の意向に従い、
徹底抗戦を主張する陸軍内部の倒閣運動やクーデター計画を
すすめる強硬派の暴発を抑えるべく動く様子が
映画では描かれていた。

終戦の方向に動き、8月14日の夜に昭和天皇が
ポツダム宣言受託の玉音放送の録音をしたが、
8月14日の深夜から翌朝の早朝にかけて、
戦争継続を主張する陸軍強硬派の一部が反乱を起こし、
昭和天皇の声明を録音した
玉音放送のレコードを奪い取ろうとしたが失敗に終わる。

そして、8月15日の朝に、
陸軍大臣の阿南惟幾は割腹自殺を図るが、
映画で、阿南惟幾を演じる役所広司が
刀で腹を切り、そして、意識が朦朧とするなか
首の頚動脈を切ろうとしているシーンには
見入ってしまった。

それにしても、8月15日に終戦しなくて、
それ以降に遅れてしまったら、北海道がソ連に
占領されて、北海道が現在もロシア統治下に
なっていたかもしれない。

もし、陸軍強硬派がクーデターに成功して、
戦争を継続していたら、
昭和20年11月には、アメリカ軍は
南九州を占領するオリンピック作戦を実行して、
その翌年の3月には、関東平野を占領する
コロネット作戦を実行しようとしていた。

沖縄県民の4人のうち1人が
亡くなった沖縄戦のような凄惨な地上戦の激闘が日本本土でなされていたら、
より多くの戦死者が発生して、
現在の我々日本人の両親や祖父・祖母がその時に亡くなって
いた可能性があり、そうなると今の自分がいなかったかもしれない。


そう思うと、昭和20年8月15日に日本が戦争を終えた
ということが、よりわがことのように思えるものであり、
日本人にとって、重大な歴史的な事実として
認識しておいたほうがいいと思える。

ちなみに、私の母方の祖母は鹿児島県大隅半島最南端の集落に
住まいしていた。オリンピック作戦の巻き添えになって
いたかもしれなず、私はこの世に存在していなかったかもしれない。
実際、昭和20年8月15日に終戦したため
オリンピック作戦は実施されず、祖母は戦禍を逃れ、
私の母は昭和22年2月20日に生まれている。

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「お開き」の語源から、「敗戦」を「終戦」と言ってしまう日本人にある根深いものを思う

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子供は何でも楽しんで遊び場にする・・・高度経済成長期の電車が走らない駅の線路にて



今日は、2016年(平成28年)6月 4日 土曜日

先日の1日に、西宮市役所に用事があり、
そのついでに、市役所の東館8階で、

第18回歴史資料写真展
「酒ぐらの裏小路-旧西宮町の街-」

をしていたので、見てみた。

そこで注目したのが、阪神電鉄の今は亡き西宮東口駅の
昭和34年(1959年)に撮影された
「ストの日の西宮東口駅」
という写真である。

西宮東口駅 160601_0951~001

ストライキの影響で、電車が運休され、
そのため子供たちが普段は入れない駅中の線路に入って
遊んでいるのだ。

レールの上に乗って、平均台のように遊んだりと
子供はなんでも遊んで楽しむことができる才能があるのだなあと
思うのであった。

西宮東口駅は、明治38年(1905年)に開業され、
近くに市場があったり、近くの女学校があったり、
主要な行政機関があったりして、
近くの阪神の西宮駅よりも年間利用者数が多い駅であった。
しかし、同駅は、
平成13年(2001年)に、阪神電鉄が高架化されたことに
ともない、隣の駅の阪神西宮駅に統合され廃止された。

今は亡き駅であるが、かつて、高度経済成長期の電車が走らない日に
子供の遊び場になった何気ない日常の歴史のひとこまを
見ることができてよかった。

ちなみにこの写真展は6月6日までしているようだ。


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