「きれいって何?」と幼い女の子が母親に質問する光景を見て、哲学者ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を思う
今日は、平成30年(2018年)11月14日 水曜日
3日前の11月11日18時30分過ぎ JR大阪駅から阪急梅田駅への連絡デッキを歩いていたら 4~5歳くらいの女の子が、若いお母さんに
「きれいって何?」
と質問していた。
すると、お母さんは
「きれいは、きれい!」
という回答をしているが聞こえて ふいてしまったが、
どうして、その幼い女の子がそのような 質問したのかは、わからないが
「きれいって何?」
という大人になるほど、当たり前に 意味を厳格に定義していないが、 使用している表現について その意味について よくわかっていない子供が 問い直すように質問は ある意味哲学的だなと思った。
「きれい」は辞書的には
美しい。特に見た目がきらびやか。よごれや余計なものがない
などの意味が掲載されているが、
幼い子供には、辞書を読んで「きれい」の意味を理解はしないだろう。
おそらく、親も含めた自分よりも年長の者たちが
例えば、春に咲く桜の花を見て
「きれい」と言ったり、
透き通った濁りのない水を見て
「きれい」と言ったり、
クリスマスシーズンの夜の街を彩るきらびやかな イルミネーションを見て、
「きれい」と言ったりしているのを見て、
どのようなものを見て、何か心が動かされた時に
「きれい」という表現を使うことを習得していくのである。
春に咲く桜の花を見て、何か心を動かされると
「きれい」という表現を使うとみんなに理解してもらえるという
規則性を体感して習得していくのだ。
これは哲学者ヴィトゲンシュタインが、彼の後期哲学において とたえた言語ゲーム論―複数の人たちの間で交わされる受け答えの言語的なふるまいは 何かの規則的なものによって成り立つゲームであるというという主旨の理論の 事例とも言える。
もし、ゴミが散乱しているゴミ屋敷を見て
「きれいですねえ」と言ったりしたら、
おまえの美的感覚はおかしいとか、 えっ、何かのギャグですかとか、皮肉ですかとか 個性的な感覚をしてますえとか
つまり、ごみ屋敷を見て「きれい」という表現を使用するのは 多数の方々の共通感覚に基づく、「きれい」という表現についての 言語ゲームの規則性から不適切だと指摘されているのだ。
「きれい」という表現は、どのように使うのが適切なのかは 人々が歴史を通じて培ってきた言語的ふるまいのルールを 日々の生活習慣の人々のふるまいから習得して、 春に桜の花を見た時に「きれいだね」と 言ったりするのだ。
「きれいって、なあに」と子供にきかれて
「きれいは、きれい!」
としか言えないのは致し方がない面がある。
「きれいという表現は、みんながきれいと思うようなときに 使うと決まっちゃっているから」としか言いようがないとも言える。
テーマ:ことば - ジャンル:学問・文化・芸術
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